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今週の花

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カラスに請求書を回したい心境です。

2014.09.29

(花)シンピジューム、ダリア、トルコききょう、カーネーション、(枝)トクサ、(実)風船トウワタ、(葉物)ドラセナ、レザーファン

(花)シンピジューム、ダリア、トルコききょう、カーネーション、(枝)トクサ、(実)風船トウワタ、(葉物)ドラセナ、レザーファン

カラスのいたずらに困っています。

 農協会館駐車場の一角に、立体駐車場があります。
平場の駐車場だけでは、駐車スペースが足りないため、新たに建設したものです。2基エレベーターが稼働しており、50台ずつ、計100台の車を収納できます。

この立体駐車場の屋上に、水銀灯を2基設置しています。
立体駐車場が午後9時まで動いているため、地上約30メートルの上から、水銀灯で車が安全に納車できるように明るく照らすためです。

 ところが、最近になって、この水銀灯が2基とも点かなくなりました。
原因が分からず、業者の人に調べてもらったところ、水銀灯の根元から電線が切断されていることが分かりました。どう考えても、外壁の途中からハシゴ段で登らなければならない屋上に、誰かが登り、切断したとは到底考えられません。といって、自然に劣化するような電線の材質でもありません。
色々と犯人捜しをした結果、犯人はどうも「カラスの仕業であろう」ということになりました。電線といっても、防水の効いた業務用で、かなり太く、さらに水銀灯の根元部分は特殊加工がしてあったにもかかわらず、見事にやられました。

日によっては、夕方になると、呉羽山から県庁前公園あたりまで、驚くほどのカラスが乱舞していることがあります。ヒッチコックの映画「鳥」ではありませんが、空を覆い隠すように、カラスが「カアー、カアー」と舞う姿は、決して気持ちがいいものではありません。心なしか、農協会館がある県庁前公園周辺が、特にカラスが多い気がします。
確かに立体駐車場の屋上でも、多くのカラスが羽を休めている姿をよく目にします。

でも、不思議なのは、なぜ電線を切断したかということです。
電線を食べ物と勘違いしたのでしょうか?しかし、どう考えても、食べ物と間違えるわけがありません。単なる遊びにしては、ちょっと度が入り過ぎています。それも1基だけではなく、2基ともダメにするとは……。あれだけ固いものを嘴で啄(つい)ばんで切るには、カラスなりにかなりの時間と根気を要したことと思います。

水銀灯については、老朽化していたこともあり、すべて新しく交換しました。費用は、約20万円も掛かりました。もちろん、カラスが悪さできないように、水銀灯の根元を鉄の覆いで囲むなど、様々な工夫を施しました。
また、カラスとの知恵比べが始まっています。

経費削減が叫ばれているおり、犯人のカラスに請求書を回したい心境です。(O)

小さな大自然

2014.09.22

(花)コスモス、秋色あじさ い、吾亦紅(葉物)ススキ、木苺

(花)コスモス、秋色あじさい、吾亦紅(葉物)ススキ、木苺

 

秋祭りのシーズンとなりました。

この原稿を書き始めたのは、20日の午後10時過ぎ。
わずかに開けた窓の外から、獅子舞の元気いっぱいな笛や和太鼓のお囃子が聞こえてきます。今朝、9時頃から始まった獅子舞。かれこれ半日以上経ったにもかかわらず、若連中は疲れを知らず、一層熱を帯びて獅子を舞っているようです。
何といっても、お盆明けから毎晩、1カ月以上にわたって練習を続けて来ただけに、本番である今日、明日と力が入るのも当然といえます。

 猛暑だった夏から、今年は厳しい残暑もないままに、秋に入ったようです。
どこからともなく吹いてくる風からも、秋の訪れを感じ取れます。日中はいざ知らず、朝晩はすっかり涼しくなりました。心なしか木々も、徐々に色づき始めているようです。

今日、高岡市のおとぎの森で開かれている「山野草展示会」に行ってきました。
「清秋の盆草展」と名付けられた、今回の展示会。こぢんまりとした会場には、雄神(おがみ)盆草会のメンバーが丹精込めて栽培している、多くの山野草が展示されていました。この展示会を知ったのは、今朝の朝刊。こういった展示会は初めてのため、やや戸惑いがありましたが、楽しいひとときを過ごせました。
帰りには、即売会の中で気に入った、3本の指に乗るような小さな「ハゼ」の鉢と、ピンク色にかわいく咲いた「大文字草」の小鉢を購入しました。

以前から山野草に興味があり、2、3年前から苔玉(こけだま)を始めています。あちこち出掛けるたびに気に入った苔玉を集めています。「爺くさい趣味」と笑われそうですが、深緑色の苔と野趣に富んだ苔玉を見ていると、正直ホッとします。いつも机の周りに置いており、読書で疲れた時など、ふと目にしています。
どちらかというと、いかにも自ら「盆栽です」と自己主張するような、人の手の入った立派な盆栽より、山道を歩いていてどこにでもあるような山野草の小鉢の方に惹かれます。素朴で独特の味わいが残る、田舎っぽさに魅せられるからです。

でも、不思議です。
小鉢の、掌(てのひら)に載るような小さな空間から、大自然を連想させるような、力強さが感じられるのですから。

 苔玉って水さえやればよいと、初めは単純に考えていました。
確かに枯らさないように水遣りや霧吹きは、大切です。しかし、なぜか四季の移ろいの中で、苔は大丈夫でも、草木が枯れたりします。今までに、何鉢ダメにしたことか。
これからは、温度管理や日照などに注意しながら、小さな大自然を大切に育てていこうと思います。
どうも、山野草にハマりそうです。(O)

ほのぼのとした昭和のぬくもり

2014.09.16

26.9.16収穫の秋を迎えています。

 好天候に恵まれ、県内の稲刈りは順調に進んでいるようです。
稲刈り真っ盛りといっても、6年前から営農組合となった現在は、正直、余り実感がありません。農作業のほとんどは、役員と定年退職となった一部の人で進められており、こちらは当番表にもとづき、指定の日に労務提供するだけでOK。今年の秋は、1日のみです。昨年は、予定の日が雨となり、結局ゼロになりました。
営農組合に加入してからというもの、高齢になった母は「営農組合に入って良かったなー」と、口癖のように言います。

 今となっては、大変楽になった稲刈り。
でも、私が小学生の頃は、一家総出の一大行事でした。
当時、1町余りの圃場があり、田の枚数にして約30枚。今から50年も前のことであり、区画整理が始まっておらず、田の形が不揃いなうえに、機械化も進んでいません。もちろんコンバインなど、あるはずがありません。すべてが、手作業による家内労働でした。

父が公務員であったため、農作業は専(もっぱ)ら祖父と母の役割。
稲刈りは、すべて手刈り鎌による手作業。刈った稲は、ハの字型に置きながら刈進み、最後に腰に付けた藁(わら)で縛ります。モミ乾燥機など普及していなかったため、田で地干しするか、田の周りに作った稲架(はさ)に掛けるか、どちらかで自然乾燥させます。
小学校から帰ってくると必ず玄関に紙が置いてあり、今日のやるべき農作業が指示してあります。3歳年上の姉と2人で、紙に書かれた田を順番に回り、地干された稲を「四っつ、四っつ」に集めたり、穂が夜露に濡れないように、「ニオ」という渦巻状に積み上げたり、子供なりに手伝ったものです。

父が仕事から帰ってくると、稲架掛けです。
早く日が暮れる、この時期。薄暗い夕暮れから稲架掛けが始まり、月明かりの中で作業することもしばしば。稲架掛けは下から積み、徐々に上段に上がります。稲を下段で父に手渡しする、初めの頃は楽ですが、上段になればなるほど、梯子(はしご)のうえにいる父に稲をうまく投げる必要があります。刈ったばかり青い稲が、小学生の身には重く感じられ、薄暗くなり、お腹がすいたこともあり、「早く終わればナー」と、よく考えたものです。
でも、作業が終わり、月明かりの中を5人揃って家路に着く時、子供なりに心地よい達成感を感じたものです。

先日に家内と、長野県飯山市にある「高橋まゆみ人形館」に行ってきました。
高橋まゆみさんの根強い人気のためか、小さな人形館は多くの人で賑わっていました。
創作人形作家の高橋まゆみさん。高橋さんの名前を知らなくても、高橋さんの作品を目にした人は多いはず。
ホームページには、「おじいちゃんの笑顔、おばあちゃんのおしゃべり、食卓を囲む風景…、誰もが親しみを感じる創作人形たち。おかえりなさい、ふるさとへ」とあります。
昔懐かしい風情が残され、ほのぼのとしたふるさとの香りが感じられる人形たち。今は失われつつある、日本の原風景が満ち溢れていました。また、行ってみたくなる人形館です。

祖父や父、母、姉の懸命に働く、その後ろ姿に働くことの原点、そして家族で協力しながら、汗を流す大切さを教えてもらった気がします。
その祖父も父も姉も、もう他界しました。
昭和30年代は貧しく、不自由で、物質的な豊かさはなかった気がします。
でも、高橋まゆみさんの人形にあるように、ほのぼのとした昭和の温もりがあった気がします。(O)

「人生塞翁が馬、苦あれば楽あり、不運は幸運の前触れ」

2014.09.08

DSC00936シンガーソングライター・小椋佳さんの「生前葬コンサート」が、9月12日から4日間、東京・渋谷のNHKホールで行われます。

生前葬コンサートという、馴染みのない言葉。
古希を過ぎた小椋さん。70歳を過ぎ、気力、体力ともに減退を感じ、今回の生前葬コンサートを最後に、大掛かりな歌手活動などにピリオドを打つとのこと。このことを初めて私が知ったのは、昨年12月に富山市・婦中ふれあい館で行われた小椋さんのコンサートの時。
期待にたがわない素晴らしいコンサートでしたが、終了間際にこの告白を聞き、正直驚きました。

「音楽活動の場合、定年はない。だから自分でけりをつけなければならないと思った」という小椋さん。初めてコンサートを行なった想い出の場所、NHKホールをあえて最後の会場に選んだという。毎年約50曲の歌づくりを続け、40年間で2,000曲以上の作品を残したといいます。その中から、選りすぐりの1日25曲を、まったく異なるメニューで4日間、全100曲を歌い上げます。

 「生前葬という葬式をやるからには、遺言状というものを書いておくのもいい」と、遺書「小椋佳 生前葬コンサート」(朝日新聞出版)が出版されました。小椋さんの心情が、赤裸々に綴られているこの本。
この中で、次男の方が中学2年生の14歳の時、原因不明の若年性脳梗塞となり、左脳全体が破壊され、言語も記憶も運動力も失い、全身不随、植物状態で入院され、つらい日々を送られたことを初めて知りました。

小椋佳さんといえば、東大法学部を卒業し、日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)に入行、本店部長まで歴任した超エリート。並行して、シンガーソングライターとしても、若くして数々のミリオンセラー生み出した才能豊かな人。順風満帆の人生、幸福そのものの人と、勝手に考えていました。

 治療の方法が見出せず、なんの回復の兆しも見出せない時、息子さんの枕元で「あなたが美しいのは」を口ずさんだところ、なんと息子さんが正確にこの歌を歌い出したといいます。その場面を、「私は驚いた。感動した。うれし涙が溢れてきた」と感無量の思いで書いておられます。不思議なことに、この日を境に遅々としながらも、医師も驚くほど、息子さんは言語も手足の運動能力も回復し始めました。
それでも、試行錯誤を繰り返しながら、外見的に健常者と見分けがつかなくなるまでには、ほぼ10年の年月を要したとあります。
現在、その次男の方は40歳に近づき、全国でも稀な琵琶製作者という職人技を身につけ、植物状態の時は望むべくもなかった素晴らしい、音大出の女性と結婚し、良き歩みを続けておられます。

「人生塞翁が馬、苦あれば楽あり、不運は幸運の前触れ」という小椋佳さん。人々の魂に響く曲調は、ご自身の辛い胃癌からの克服を含め、他人にはわかり得ない、多くの艱難辛苦を乗り越えた中から生まれてきたものなのでしょうか。
生前葬コンサートの成功を祈っています(O)

「日本人はみんな園芸愛好家である」

2014.09.02

26.9.1-1先日、農協会館前の歩道で、ハンギングバスケットの前で写真撮影している人がいました。

 聞き慣れない「ハンギング」という言葉。
さまざまなバスケットや吊り鉢などを使用して、花を下や横からの目線で鑑賞するガーデニングの方法だそうです

会館がハンギングバスケットを始めたのは、平成25年4月からです。
会館前駐車場を取り囲むように、現在11基設置しており、期間は3月から12月までの10カ月間。花の管理をお願いしているのは、富山市長岡にある株式会社柴崎農園さん。季節の花々をうまくアレンジして、年4回取替えてくださいます。観て楽しむ私達は良いのですが、花を維持管理する柴崎農園さんは大変です。特に今年のように連日猛暑が続いた年は、水遣りなどで、ご苦労いただいています。歩行者や車の邪魔にならないように、早朝の4時、5時頃から、軽四トラックに水を満タンにした大型タンクを積み、水遣りをするそうです。本当に頭が下がります。柴崎農園さん、いつもありがとうございます。

 最近、面白い本を読みました。「シュリーマン旅行記 清国・日本」(H・シュリーマン著、石井和子訳、講談社学術文庫)という本です。DSC00908
ハインリッヒ・シュリーマンがトロイア遺跡を発掘したことは、私も知っていましたが、その彼が幕末の日本を訪れ、日本に関する旅行記を書いていたことは全く知りませんでした。彼が日本を旅行したのは、トロイア遺跡発掘に成功した1871年の6年前。つまり、世の中が明治に変わる3年前の江戸末期です。1865年6月1日から7月4日までの1カ月間、日本に滞在しています。尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、鎖国政策で外国人の江戸に入ることがほとんど禁止されていたにもかかわらず、外交官でも軍人でもない実業家の彼が、幕末の江戸を見聞し、本に残したことは驚嘆に値します。
わずか1カ月という短期間の滞在にもかかわらず、当時の日本の様子を、なんの偏見を持たずに客観的に観察し、わかり易く記述しています。今までと全く異なる切り口で幕末の日本に触れられることが出来、とても新鮮に感じられました。
いつの間にか、シュリーマンという人間性、そして日本に対する温かな眼差しに引き込まれました。

 そのシュリーマンが、日本人についてこのように書いています。
「道を歩きながら日本の家庭生活のしくみを細かく観察することができる。家々の奥の方にはかならず、花が咲いていて、低く刈り込まれた木でふちどられた小さな庭が見える。日本人はみんな園DSC00909芸愛好家である。」(81P)
「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることに異論の余地がない」(87P)

シュリーマンが見た日本には、今は失ってしまった、かつての美しい日本の原風景が残されていました。
動乱の江戸末期に生きた人たちは、貧しい生活の中でも小さな庭を作り、種を植え、苗を育て、日々の営み中で、花を愛したといいます。
日本人の一人として、今も脈々と続く、花を愛でる心を大切にしたいと思います。(O)

さり気無いひとこと

2014.08.26

「農協会館は、年数が26.08.25経っている割にはきれいだね」
ありがたいことに、時々うれしい言葉を掛けてくださる方がいます。社交辞令かもしれませんが、このようなお言葉をいただくと、正直うれしいです。

 この会館は、昭和55年3月に竣工しましたので、人間でいうと満34歳。
老朽化しているにもかかわらず、「きれいだね」と言っていただける要因の1つは、清掃業務を委託している北栄産業のスタッフの努力の賜物といえます。
清掃業務は、入居団体の通常業務が最優先ですから、日中の時間帯以外に、早朝や土日などイレギュラーな時間にも業務が及びます。人目に付きにくく、地味な仕事で、努力の割には報われることが少ない仕事ではないでしょうか。でもなぜか、手抜きすると、すぐにクレームがくるのも清掃業務の宿命です。

 私は東京での学生時代、様々なアルバイトを経験しました。一番長くバイトしたのは、掃除でした。仕事先は、大学から徒歩5分にある健康保険病院。入院施設はなく、検査中心の病院で、勤務時間は午後5時30分から7時まで。約40年前で、当時としては割りがよく、1時間半で1,100円。大学の最終講義終了後でも間に合うため、2年生から4年の就職活動前まで、毎日続けました。ゴミ集めと灰皿拭き、床掃きなどの軽作業ですが、時間制限があり、広いフロアを走り回り、夏場はもう汗びっしょり。たかがアルバイトですが、自分なりにプライドを持って、そのフロアを担当したつもりです。

 今から思うと、病院でアルバイトした2年数カ月の中で、医師や看護師、事務の方々から、「お疲れさん」とか、「ご苦労さん」といった言葉を掛けられたことが一度も無かったように思います。別に、ねぎらいの言葉が欲しかった分けではありません。実際、部外者であるバイト学生にいちいち声を掛ける必要もなかったと思います。

 改めて、この社会はいかに多くの方によって支えられていることかを教えてもらっています。人目に触れないところで頑張っている人が、沢山います。公衆トイレをきれいにしてくださっている人、無人駅で花を活けてくださる人など、普段気付かないところで、多くの方が労してくださっています。その方々に、「ありがとうございます」とか、「ご苦労様です」とか、ちょっとした言葉や感謝の言葉、そして自然なお礼の仕草ができたらと常々思っています。
心から自然に出てくる、さり気無いひとこと、態度が、とても大切になっている時と思うからです。(O)

また、ひぐらしが鳴く季節となりました。

2014.08.18

また、ひぐらしが鳴く季節となりました。
ひぐらしの声を聞くと、小学校時代の夏休みを想い出します。

 もう、45年ほど前に閉校となった山あいのわが母校26.08.18.
同級生は、男子7名、女子11名のわずか18名。皆、大変仲が良く、1年生からずっと一緒。名前を苗字で呼ぶことはなく、○○君、○○ちゃんと、互いに下の名前で呼び合ったものです。還暦間近となった今も、全員の下の名前が自然に口から出てきます。
全校生徒は、百人足らず。作家・壺井栄の「二十四の瞳」に出てくる「岬の分教場」ではありませんが、木造の小さな小学校でした。50メートル走の測定の時は、大変です。なんといっても、グランドの長辺だけでは短いため、グランドを対角線上に走り、なおも足りなくて、相撲場の土俵の上を駆け抜けるのですから。

 夏休みの一番の楽しみは、やはり水泳。
もちろん、その当時のことですから、プールなどありません。地元の川が、私達の水泳の場でした。浅瀬があり、深みがあり、急流や岩場があり、まさに変化に満ちた自然の中で、川遊びを満喫したものです。河川改修がされる前でしたので、鯉やフナ、ナマズなど、様々な川魚がいました。夕方水遊び疲れて、並んで帰る時に、どこからとも無く聞こえてきたのが、ひぐらしの声でした。
「カナカナカナ」と鳴く声は、なぜか物悲しく、哀愁に満ちていました。夕焼けや入道雲とともに、小学生の私の心に印象深く残りました。

 その当時は、声の主が「ひぐらし」とは知りませんでした。ひぐらしという名前を知ったのは、ずっと後のように思います。今でも、ひぐらしの鳴き声が好きで、You Tube(ユー チューブ)からダウンロードして、読書しながら聞いています。
NHKのラジオ番組「音の風景」ではありませんが、皆さんにも自分の心の中にいつまでも響く、音の風景ってありませんか。

 詩人で書家の相田みつをさんが、ひぐらしに関する詩を書いておられます。
ご存知かもしれませんが、ご紹介します。(O)

 「ひぐらしの声」

 ああ 今年も
ひぐらしが鳴き出した。

ひぐらしの声は
若くして戦争で死んだ
二人のあんちゃんの声だ。
そして、
二人のあんちゃんの名を
死ぬまで呼び続けていた
悲しい母の声だ
そしてまた
二人のあんちゃんのことには
ひとこともふれず
黙って死んでいった
さびしい父の声だ

 ああ 今年も
ひぐらしが鳴き出した。

            みつを

 

今日も、お待ちかねの花が届きました。

2014.08.11

26.08.11-1今日も、お待ちかねの花が届きました。

 ご存知でしたか、当会館の1階受付に花を飾っていることを。
この花は、会館近くのお花屋さん、立山農園の方々が毎週月曜日に届けてくださいます。昨年9月から始めた、このフラワーアレンジメント。
嬉しいことに、とても評判がいいのです。いつの間にか、すっかり定着して、毎週月曜日を待ちわびている方が増えています。会館の入居者はもちろんのこと、なぜか会館外にも隠れファンが――。
季節を先取りした花々や見たこともない草花によるアレンジメント、正月や節分、桃の節句、クリスマスなど、それぞれの時節にふさわしいデコレーション。限られた予算の中で、毎回、立山農園さんの意欲と創意工夫、そして、草花に対する心優しい息遣いが感じられます。

 草花に対する心遣いといえば、染織家・志村ふくみさんを思い浮かべます。
人間国宝である志村ふくみさんの作品を初めて目にしたのは、3年前に開かれた富山水墨美術館の「志村ふくみ・洋子展」。志村さんの名前しか知らず、何気なく水墨美術館に行った私は、草木から抽出された素朴な味わい、そして染織された紬の素晴らしさに、ただただ圧倒されました。
以来、機会あるごとに、志村さんの作品を見せていただいています。今年も、2月に上野の東京国立博物館で開催された「人間国宝の現在(いま)」で、志村さんの作品に触れ、まさに至福の時間(とき)をいただきました。
京都で試行錯誤しながらも、草木染で鮮やかな着物を作り続ける志村さん。作品から、厳しくも草花に対する限りない愛おしさが感じるのは、私だけでしょうか。

 当会館1階受付にあるフラワーアレンジメント。
もし時間があれば、ぜひ見に来てください。会館に来れない方には、毎週月曜日にホームページにアップする予定ですので、楽しみにお待ちください。(O)

ブログを始めました。

2014.08.07

26.08.04今日から、ブログを始めました。
1週間に1回程度の更新を予定しています。
いつまで続くか、心もとない者ですが、会館にまつわる出来事などを中心に、気ままに書かせていただきます。一読してくだされば、幸いです。

 8月5日と6日の両日にわたって、高等学校卒業程度認定試験が当会館で行われました。富山県教育委員会の県立学校課さんが、毎年ホール・会議室を利用してくださっているもので、とても感謝しています。
高等学校卒業程度認定試験は、以前は確か大検(大学入学資格検定)と言われていたはず。試験当日は、普段この会館では見られない髪形やスタイルの若者たちの姿が、1階と8階で多く見受けられました。
希望に燃えて入学したはずの高校で、何があったのか、もちろん知る由もありません。入学した高校が合わなかったのか、本人の学力不足なのか、経済的な事情なのか、病気のためなのか、何か別の理由があったのか――。いずれにせよ、高校中退という選択は、本人にとっても、ご両親にとっても、ご家族お一人ひとりにとっても、つらい決断だったと思います。
でも、この試験に臨んだ若者たちは、新たな道に一歩踏み出そうとしている子供たちです。弁護士の大平光代さんの例を出すまでもなく、子供たちの前には険しいかもしれませんが、新たな道、新たな扉が開かれています。

作家・鈴木秀子さんは、著書「あなたは生まれたときから完璧な存在なのです」(文春新書)の中で、「人生に意味のないことは起こらない」と言い、「若竹が節をつくって天に伸びていくように、苦しみは人間にも節をつくります。あの苦しみがあったから、今の私があると思うことがきっとあるはず」と、書いておられます。
あの子供たちが、しっかりと節をつくり、この試練を乗り越え、若竹のようにすくすくと伸びていくことを、試験会場をお貸しできた者の一人として期待しています。(O)

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