ほのぼのとした昭和のぬくもり
2014.09.16
好天候に恵まれ、県内の稲刈りは順調に進んでいるようです。
稲刈り真っ盛りといっても、6年前から営農組合となった現在は、正直、余り実感がありません。農作業のほとんどは、役員と定年退職となった一部の人で進められており、こちらは当番表にもとづき、指定の日に労務提供するだけでOK。今年の秋は、1日のみです。昨年は、予定の日が雨となり、結局ゼロになりました。
営農組合に加入してからというもの、高齢になった母は「営農組合に入って良かったなー」と、口癖のように言います。
今となっては、大変楽になった稲刈り。
でも、私が小学生の頃は、一家総出の一大行事でした。
当時、1町余りの圃場があり、田の枚数にして約30枚。今から50年も前のことであり、区画整理が始まっておらず、田の形が不揃いなうえに、機械化も進んでいません。もちろんコンバインなど、あるはずがありません。すべてが、手作業による家内労働でした。
父が公務員であったため、農作業は専(もっぱ)ら祖父と母の役割。
稲刈りは、すべて手刈り鎌による手作業。刈った稲は、ハの字型に置きながら刈進み、最後に腰に付けた藁(わら)で縛ります。モミ乾燥機など普及していなかったため、田で地干しするか、田の周りに作った稲架(はさ)に掛けるか、どちらかで自然乾燥させます。
小学校から帰ってくると必ず玄関に紙が置いてあり、今日のやるべき農作業が指示してあります。3歳年上の姉と2人で、紙に書かれた田を順番に回り、地干された稲を「四っつ、四っつ」に集めたり、穂が夜露に濡れないように、「ニオ」という渦巻状に積み上げたり、子供なりに手伝ったものです。
父が仕事から帰ってくると、稲架掛けです。
早く日が暮れる、この時期。薄暗い夕暮れから稲架掛けが始まり、月明かりの中で作業することもしばしば。稲架掛けは下から積み、徐々に上段に上がります。稲を下段で父に手渡しする、初めの頃は楽ですが、上段になればなるほど、梯子(はしご)のうえにいる父に稲をうまく投げる必要があります。刈ったばかり青い稲が、小学生の身には重く感じられ、薄暗くなり、お腹がすいたこともあり、「早く終わればナー」と、よく考えたものです。
でも、作業が終わり、月明かりの中を5人揃って家路に着く時、子供なりに心地よい達成感を感じたものです。
先日に家内と、長野県飯山市にある「高橋まゆみ人形館」に行ってきました。
高橋まゆみさんの根強い人気のためか、小さな人形館は多くの人で賑わっていました。
創作人形作家の高橋まゆみさん。高橋さんの名前を知らなくても、高橋さんの作品を目にした人は多いはず。
ホームページには、「おじいちゃんの笑顔、おばあちゃんのおしゃべり、食卓を囲む風景…、誰もが親しみを感じる創作人形たち。おかえりなさい、ふるさとへ」とあります。
昔懐かしい風情が残され、ほのぼのとしたふるさとの香りが感じられる人形たち。今は失われつつある、日本の原風景が満ち溢れていました。また、行ってみたくなる人形館です。
祖父や父、母、姉の懸命に働く、その後ろ姿に働くことの原点、そして家族で協力しながら、汗を流す大切さを教えてもらった気がします。
その祖父も父も姉も、もう他界しました。
昭和30年代は貧しく、不自由で、物質的な豊かさはなかった気がします。
でも、高橋まゆみさんの人形にあるように、ほのぼのとした昭和の温もりがあった気がします。(O)