日々是好日
2016.11.01
母の認知症が、少しずつ進んでいます。
父を亡くして、ひとり暮らしを始めてから、もう13年。
「風邪ひとつ、ひいたことがない」が口ぐせで、健康が何よりの自慢だった母。
土仕事が生きがいで、水田を守り、いろいろな野菜づくりを楽しみながら、畑仕事に勤しんできた母。
そのような母が、今年に入って、「軽い認知症」と診断されました。
昨年の暮れに腰を痛め、歩行がやや困難になってからというもの、少しずつ物忘れがひどくなり、時々辻褄(つじつま)の合わないことを話します。物忘れについては、以前から兆候が見られましたが、80歳代半ばということもあり、年齢的に当然の成り行きと思っていました。
今回初めて、医師から「認知症」として診断され、認知症の薬が処方される段になると、「ついに来たか」という複雑な思いになるとともに、ショックに近いものを受けました。
腰を痛めたといっても、入院したわけでも、手術を受けたわけでもありません。
整形外科の医師からは、湿布薬と痛止めの薬を処方されただけで、一時はトイレなど日常の生活に支障を来たす時期もありましたが、今は元気を取り戻しています。介護の杖(つえ)は離せなくなりましたが、ゆっくりと歩いています。
春先には、大好きな畑仕事に精を出せるようになり、例年どおりトマトやきゅうり、なすなど、多くの夏野菜を植え、自然の恵みを満喫していました。
先日も、玉ねぎを植えるため、自ら鍬で畝(うね)を打ち、100本の苗を植えました。
初めの頃は、1日に何回も同じ質問をされ、幾度となく同じ昔話を聞かされ、イライラして、「ばあちゃん、さっきから同じ話ばかりしているよ」と、つい大きな声を出してしまう時もありました。感情的に反応してしまった後には、決まって自分の愛の無さ、人間として器の小ささに、自己嫌悪に陥ったものです。
一方では、あれだけしっかり者だった母親の変わりように驚くとともに、徐々に手の届かない「遠い人」になりつつある母を受入れたくないという思いも、心の隅にあったようです。
最近、A市で仕事を終えた後、ほぼ毎日B市にいる母を訪ねるようにしています。
寒さとともに畑仕事が少なくなり、近所のおばあちゃんたちと会話をする機会が減るためです。
滞在時間にして、わずか30分程度ですが、母の話し相手になるとともに健康状態の確認もかねて、足しげく通っています。ついでに、台所の後片付けやゴミの分別、居間の整理整頓などもしてきます。
買い物に行けなくなったため、冷蔵庫の中を確認しながら、食べ物も届けています。
この頃になってようやく、母との「間合い」の取り方が分かってきた気がします。
以前にも増して、同じことを何度も話しており、母に頼んだことは見事に忘れていますが、こちらがイラつくことは少なくなりました。少しは、余裕をもって母に接することができるようになったと、自分では思っています。
不思議なものです。
こちらに少しでも心の余裕が出て来ると、母の表情もなぜか和らいできた気がします。
まるで、心を映す鏡のようです。
家内も、何かと協力してくれており、ありがたいことです。
「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」という禅語があります。
その日その日が最上であり、最高であり、かけがえのない一日といった意味でしょうか?
残念ながら、一日々々遠くなりつつある母。
母が、少しでもかけがえのない良い日々を送ることができるように、微力ながらしっかり支えていこうと思っています。(O)
PS.先日、朝日新聞を読んでいると心にとまる文章がありました。少し長いですが、紹介させていただきます。
「生きてていいんだ」
私が精神の病気になったのは16歳の時です。
病院に入院し、対人関係に苦しみ、社会から取り残されたような気がしました。
やっと退院しても、自分ほど不幸な人はいないと本気で思いました。
でも、最近になって、世界中の人がなにかしら苦しみや悲しみを抱えていると悟り、自分が恥ずかしくなりました。
幸せな人と不幸な人は別の人だと思っていたのが、実は同じ人のなかに幸せと不幸が一緒に重なってあるのだと、気付きました。
まわりの世界のことを知らなかったのが、病院や施設でいろんな人がいることを知るなかで、だんだんそれがわかるようになりました。
そして、自分はここにいていいんだ、生きてていいんだと気付いた時、重い荷物のようなものをやっとおろせました。
自分が不幸と思うのは「今」だから。
10年後には忘れているかもしれない。
幸せな人をうらやむのは、その人の影の部分を知らないから。
私は30年近くかけて、長い長い闇から少しだけ抜け出せたような気がしています。
朝日新聞 コラム「男のひととき」
東京都 男性(45歳) 清掃業