いい風を求めて…
2016.12.24
久々のブログとなりました。
長い間、お休みをいただいたこと。お許しください。
今後も、毎週とはいえませんが、時々書かせてもらうつもりです。
10月中旬に、京都の奥座敷、大原へ行ってきました。
デューク・エイセスの歌、「京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり・・・」でも有名な大原。京都が好きで、ほぼ毎年、あちこちの名所旧跡を訪ねていますが、京都北部に位置する大原へは、なかなか足が運べませんでした。
今回、長年の願いが叶って、やっと大原の里を巡ることが出来ました。
三千院を中心に勝林院、宝泉院、実光院、来迎院など、静かな山里にたたずむ寺院。
いずれの寺院も、苔の庭園がひときわ美しく、落ち着いた風情が漂っていました。紅葉シーズンが始まる前に訪ねたせいか、思いのほか観光客が少なく、静寂な空間を満喫できました。
三千院の中でも、見事なまでに日本庭園に調和している往生極楽院。
縁側から眺めた庭園が美しい宝泉院。
そして、久し振りに聴いた水琴窟の調べ。
時間に追われることなく、のんびりと過ごした半日は、何よりの得難いものとなりました。
今回の旅で一番心を捉えたのは、声明(しょうみょう)でした。
豊かな自然が残っている大原、数々の貴重な国宝や重要文化財。そのいずれも素晴らしいものでしたが、なぜか心の琴線に一番触れたのは、どこからとなく聞こえてきた声明でした。
声明は、経典に節(ふし)をつけた仏教音楽のひとつ。
三千院でも、勝林院でも、堂内に静かに流れていました。仏教音楽に造詣があるわけではありませんが、以前から声明には関心がありました。グレゴリア聖歌が好きで、ときどき聴いていますが、声明とグレゴリア聖歌とは、不思議と何か相通じるものを感じます。
高校時代に、禅寺に2回籠もったことがあります。
高校2年生の夏休みに、約1週間。2回目は、東京の大学へ進学が決まった高校3年生の春休みに、約2週間。
お世話になった禅寺は、高岡市太田にある臨済宗国泰寺です。当時の管長は、達磨絵などで著名な故・稲葉心田(しんでん)師。入山する時と下山する時に、寺院の奥にある心田師の自室までご挨拶に伺いましたが、とても柔和で、豪放磊落な印象を受けました。
現在はどうか知りませんが、その当時は事前に連絡すれば、入山が許されました。
禅寺での生活は、午前5時前に起床、読経、座禅、清掃、朝食、作務(さむ)、昼食、作務、座禅、写経、夕食、読経、座禅、就寝などの繰り返し。テレビやラジオ、新聞などあるはずもなく、戒律が厳しく、食事や風呂など、一つひとつにすべて定まった作法があり、食事も、当然ながら粗食そのものでした。
浄土真宗の家に生まれ、臨済宗とは全く無縁な中で育ちましたが、何かを求めて、禅寺の門をたたきました。今の小生には、当時のようなひたむきさや純真な思いは、もうありません。入山した2回とも、謹慎処分を受けた市内の高校生がいて、無期限で生活指導を受けていましたが、すぐに親しくなりました。
「般若心経」も2~3日で覚え、体に沁みついたのか、今でも少しは諳んじることが出来ます。初め苦しかった座禅も、いつのまにか自然体で組めるようになりました。寺院には、ピーンと張り詰めた雰囲気が漂っていましたが、とても心地よく感じられました。
一日に幾度となく、僧侶たちと唱えた般若心経。
その読経の響きが、三千院で聞いた声明の響きへと繋がったのかもしれません。
今年は、長野県から始まり、山形県、東北一周、京都府、沖縄県と旅行しました。
旅をするということは、いい風に吹かれることと思っています。
今いる所から離れて、違った風が吹くところに我が身を置く。いい風に吹かれると、少しは人に優しくなれる気がします。だから、いい風に吹かれるために、意識していい風が吹かれるようなところへ、我が身と我が心を意図的に持っていく。
そして、新たな風の吹くところで、小さな発見や出会いをする。
今回の声明のように……。
いい風を求めて、来年も全国各地を旅したいと思っています。(O)