四畳半一間の木造アパート
2014.12.22
FMラジオから、バンバンの「『いちご白書』をもう一度」が流れています。
この曲を聴くと、いつも学生時代を思い出します。
大学1年生のとき、大ヒットしたこの曲。フォークソング世代の1人として、「22才の別れ」「神田川」「なごり雪」などとともに、この曲を聴くたびに、大学時代の哀愁に満ちた切ないものを感じます。
東武東上線・上板橋駅近くの、四畳半一間の木造アパート。
1階の角部屋から、私の学生生活が始まりました。
大学4年の姉が借りていたアパートで、たまたま空室が出たため、早速契約。共同トイレで、半畳の台所付き。もちろん風呂なしで、月額9,000円。2カ所ある窓のうち、片側の窓際に会社の家族寮があり、光が射すのは片方だけ。洗濯物が乾きにくく、困ったものでした。
大家さんは、法務省勤務の奥さんで、社会人の娘さんと、2階で2人暮らし。
携帯電話など無い時代。大家さんの固定電話が連絡先となり、電話が掛かるたびに、2階の大家さんから窓越しに呼び出しの声がして、お詫びしながら、2階の茶の間に駆け上がることに。大家さんには、なぜか大変可愛がっていただき、「余ったから」と、おいしいおかずをたびたび差し入れて頂きました。
東京生活で、まず困ったことが風呂。徒歩2分に銭湯「第一亀の湯」があり、風呂好きな私にとっては有難たかったのですが、お湯の熱いこと。2つある風呂の、ぬるいはずの風呂でさえ、足を入れるのがやっと。横にある水道から水を差そうもなら、周りから冷たい視線が――。家庭風呂で育った我が身には、あの異常な熱さはかなり厳しいものがありました。平気な顔で入浴している「東京のみなさま」に、ただ、ただ尊敬の念。でも、不思議なことに、あれ程熱かったあの銭湯が、いつの間にか快適に――。慣れとは、恐ろしいものです。
1年後、姉が大学卒業とともに、勤務先近くの世田谷区へ引っ越し。
いよいよ私の自炊生活がスタート。3年間、朝食、夕食と、ほぼ欠かさず作りました。昼は、大学で学友達と学食を食べましたが、朝夕は料理好きなためか、裸電球一つの半畳の台所で、包丁を握り続けました。
ただ、困ったのは、大好きな魚を焼く時。ガスコンロでゆっくり焼き上げる訳ですが、換気扇など付いているはずもなく、部屋中煙だらけに。サンマを焼こうもなら、匂いが部屋中にしみつき、困りました。
大手スーパーがありましたが、姉にならって、近くの八百屋や魚屋、街角にあった豆腐屋さんなどを利用し、オヤジさん達とすっかり顔馴染みになり、よくまけてもらったものです。
大学のクラスメイトは70名。北海道から鹿児島まで、文字どおり全国各地から集まってきた仲間たち。ドイツ語を第2外国語として専攻し、1年から4年までずっと同じクラス。といっても、クラス単位の講義は、1・2年は英語とドイツ語、体育など。3・4年は、経済原論の原書講読ぐらい。
大学のクラスにしては、まとまりが良く。1年の時から年に3~4回コンパを続け、出席率も良く、卒業時も「お別れコンパ」を盛大に開催。なぜか幹事は、4年間通して私の役目。クラスの中で一番おとなしい私が、入学時に、どうして互いに名前も十分にわからない中で、幹事に選ばれたのか、いまだに謎です。
卒業する際、クラスメイトにそれぞれの出身地の住所録が入った、「サヨナラ文集」を渡そうと、私が手作りで作成し、その時手伝ってくれたのが、今の家内です。
クラスメイトに福岡県出身のⅠ君がいました。
母子家庭の一人っ子で、4年になるまで朝日新聞の取次所に住込み、朝刊と夕刊を配達し、仕送りなしで頑張っていました。疲れのためか、最低限の授業にしか出ず、ひたすら読書の世界に埋没し、クラッシック音楽鑑賞の日々。登校しても、学生服に破帽、下駄履き姿の独特の出で立ち。一般教養の時は、授業がつまらなかったせいか、成績は今一つだった様子。でも、英語に関しては、クラスでは群を抜いていました。
夏は蒸し風呂、冬は寒冷地の、彼の狭い下宿によく出掛け、語り合ったものでした。
3年から共にN教授のゼミ生となり、日本経済論を学び、彼は4年時にゼミ長に。専門課程に入ると、猛烈に幅広く学び、抜群の成績に。卒業時には日本銀行の最終面接に残ったほど。結局、大学院に進み、卒業後、私学からは難関の東京大学社会科学研究所の助手に採用されます。国費で英国の大学に2回留学。帰国後は、国立大学の講師から助教授に。40代半ばで母校に戻り、経済学部の教授に。
教授になってからも、決して偉ぶる素振りもなく、ゼミのOB総会で再会し、年賀状のやり取りが何十年も続いていました。
50代過ぎから、急に彼から年賀状が届かなくなり、どうしたのかと思っている内に、55歳の時、突然、彼の訃報を知り、本当に驚きました。肝硬変だったとのこと。
どうして連絡してくれなかったのかと残念であり、何よりも将来を大いに嘱望されていた彼だけに、本人が一番つらかったことと思います。
3年前上京した際、たまたま時間が空き、あのアパートを訪ねてみたくなりました。
当然、都市開発で跡形もなく、取り壊されていると思ったのですが、昔の姿のまま残っていました。
35年近くも経過しているにもかかわらず――。
正直、とても懐かしかったです。でも不思議と、侘しい思いが込み上げてきました。
結局、4年間生活した古びたアパート。引越し代金もなく、そのまま同じ部屋に居座った訳ですが、住み心地が良く、人々にも恵まれ、良い思い出があの部屋に凝縮されています。
老朽化したアパートには、今は誰ひとり住む人もなく、近くで洋服店を営む大家さんの妹さんによると、大家さんは7~8年前に他界されたとのこと。
バンバンの「『いちご白書』をもう一度」に
雨に破れかけた街角のポスターのように
過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる
とのフレーズがあります。
この歌を聴くたびに、もうセピア色になりつつあるあの学生時代が、哀愁を帯びて、鮮やかに心に蘇るのです。(O)
PS.
いつも拙文をお読みいただき、ありがとうございます。
もし許されるなら、もうしばらくこのブログを続けさせてもらいたいと考えています。
少し早いですが、良いお年をお迎えください。