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山あいに吹く春風

2015.04.01

(花)グロリオーサ、ゆり、トルコききょう、アルストロメリア(葉物)ゴットセファナ、ユーカリ

(花)グロリオーサ、ゆり、トルコききょう、アルストロメリア(葉物)ゴットセファナ、ユーカリ

 山あいに、春風が吹きわたっています。

  雪融けが進み、芽吹く頃になると、よく山に出掛けました。
 祖父の山仕事を手伝うためです。
 春休みは宿題もなく、近所の子供たちと思いっきり遊びたいのですが、それでも2人で山へ行きました。

  山仕事といっても、倒れた杉の木を起こす作業です。
 冬の間に、雪の重みに負けて、多くの若木が倒れます。根元から折れる木もあります。倒れた木に一本ずつロープを掛けて起こし、最後は針金を使って2カ所で固定する作業です。苗木を植林してから、自立するまで、約15年間は続けたでしょうか。
 幼木だと倒れても、簡単に起こせます。一定の大きさまで生長した木が倒れると、ひと仕事です。滑車を付けた簡単な機械で、起こす必要があります。離れた別の木の根元に滑車を固定し、倒れた木の幹の上部にロープを縛り、滑車を少しずつ巻き上げ、起こすわけです。

  ただ、倒れた幹にロープを付けるのが、大変なのです。杉の木は、平場より傾斜地に植林している場合が多いもの。なぜか倒れる時は、山側ではなく、ほとんどが谷側に向かって倒れます。しかも、テコの原理の関係で、ロープは幹の中心から少しでも上部に縛る必要があります。

  まっすぐ立っている杉の木に登ることは、慣れればたやすいこと。

  しかし、倒れている杉の木、しかも谷側に向いて倒れている木に登ることは、なかなか勇気がいります。木の上を進めば進むほど、木がしなり、自分の体重で下がるからです。さらに、上に行けば行くほど、幹は細くなり、つかまる枝も細い若枝になります。
 感覚的には、木に這いつくばりながら、谷底に向かって、弓なりにしなったまま下方へ進む感覚です。

  小学生の時は小学生なりに、そして、体重が増えるにともない、別の恐怖を新たに覚えたものです。
 このような作業を、小学4年頃から高校を卒業するまで、亡き祖父と二人で、時には母も交えて続けました。

  このように書くと、いかにもつらいだけの仕事に聞こえるかもしれません。

  実をいうと、この山作業が好きでした。

  木の上の恐怖は、最後まで消えませんでしたが、春の山が好きだったからです。
 春の山には、何とも言えない春の風が吹いていました。
 風は、目には見えません。でも、頬につたわる風は心地よく、さわやかでした。

 ウグイスや多くの鳥も、よく鳴いていました。上手に鳴くウグイスと、下手なウグイスがいることも、初めて知りました。山によって、ウグイスの鳴き方に違いがあることも、祖父から教わりました。

  春の山には、言葉に言い尽くせない、多くの魅力が満ちていました。

  今はといえば、山仕事をする人はほとんどいません。
 山に入る人すら、本当に少なくなりました。
 残念ながら、林業は衰退しています。かつては、林業に従事している人が多くいましたが、今は皆無です。安い外材が大量に輸入されてからは、国内の林業は成り立たなくなりました。
 幼い頃、杉の木は大きな収入源であり、まさに財産でした。杉の木を売って、その金で新築したとか、嫁入り道具を揃えたという話は、当たり前のように聞いたものです。今は、杉の木はもう二束三文の状態。むしろ、切り出すための経費の方が、高く掛かるような有様。
 そのため、山は荒廃し、隣の所有者との地境もわからない状態。世代交代が進んでいますが、若い世代は自分の山が、どこにあるのかも知りません。自分の山に、足を運んだことすら無いのですから。

  若い頃、祖父とともに苦労して育てた木は、信じられないほど、立派な木々に育ちました。
 正直、大木に生長した木を見ると、複雑な思いが募ります。

  それでも、この時期になると、なぜか無性に春の山に足を運びたくなります。(O)

ある青年の北陸新幹線開業

2015.03.24

気品が感じられます。(花)デルフィニューム、スプレーデルフィニューム、フリージア(葉物)ドラセナ、アオキ

(花)デルフィニューム、スプレーデルフィニューム、フリージア(葉物)ドラセナ、アオキ

 北陸新幹線が、いよいよ開業しました。

 「新幹線に乗ったよ」という声が、周りからも聞こえ始めています。残念ながら小生は、仕事上でもプライベートでも、当分新幹線に乗る機会はなさそうです。
 それでも、富山駅が新しく立派になり、一部工事中とはいえ、駅周辺もかなり整備され、ウキウキと華やいだ気持ちになっています。

 私と同様、富山駅の完成を待ちわびていたであろう、一人の青年がいます。

 ただ、その青年の名前を知りません。
 その青年と話したこともありません。
 その青年は、白杖(はくじょう)の人、目の不自由な人です。富山大学の大学院生であることを、以前、北日本新聞に掲載されていて、初めて知りました。
 その青年を、仮にH君と呼ばせてもらいます。

  H君のことは、乗り降りする最寄りの駅が同じということもあり、かなり前から知っていました。今から思うと、大学入学時だったのでしょうか。朝夕、お母さんが電車で付き添っておられました。白い杖を持つH君の傍らで、座席に座っているお母さん。大学までの順路や危険個所の確認、そしてライトレールの乗り方などを覚えておられたのでしょうか。かなりの期間、お二人の姿を拝見していたように思いますが、いつの間にか、白い杖を頼りにひとり歩くH君を見るようになりました。

  そのうち、新幹線開業にともない、富山駅を新しく建設するため、仮の駅舎が造られました。

  仮駅舎は、やや離れた所にできたため、在来線から改札までの移動距離が、かなり延長されました。仕方がないとはいえ、目の不自由なH君にとっては、かなり負担があったことと思います。
 しかも、新駅舎建設の進捗に合わせて、たびたび通路が変更されました。階段の設置場所が変更になったこともあります。H君の戸惑いは大きかったことと思います。何しろ月曜日の朝、富山駅に着くと、なんの前触れもなく、通路が大きく変更されていることがあるわけですから。晴眼者(この言葉は、あまり好きではありませんが…)ですら、驚きと戸惑いを覚えるのに、目の不自由なH君にとっては……。多くの係員が要所に立ち、アナウンスしているとはいえ、雑踏の中で、H君はきっと不安を覚えていたことと思います。

 「だったら、おまえが付き添ってあげればいいじゃないか」「なぜ、手を貸してあげないんだ」といわれれば、それまでですが……。

  通勤・通学時の人波に揉まれつつも、少しずつ慣れ、黄色い「視覚障がい者用タイル」のうえを白い杖を頼りに、しっかりと歩むH君の姿が見受けられました。

  北陸新幹線が開業し、新富山駅になってからは、ライトレールが駅舎の中まで乗り入れるようになりました。
 しかも、改札口からライトレールの乗降口まで、かなり近くなっています。

  最近、H君の姿を見ていませんが、もう雨風や冬場の凍結にも心配する必要もありません。新しく便利になった通路にも慣れ、白い杖を頼りに、今日も安全に乗り降りしていることと思います。(O)

二人の富山県人

2015.03.10

(花)アランセラアンブラック、ゆり、トルコききょう、チューリップ、プロテア(葉物)玉シダ、ドラセナ

(花)アランセラアンブラック、ゆり、トルコききょう、チューリップ、プロテア(葉物)玉シダ、ドラセナ

 二人の富山県人に想いを寄せています。

  一人は、青木新門さん。
 最近、青木さんの著書「それからの納棺夫日記」(法蔵館)を読ませてもらいました。

 ベストセラーとなった「納棺夫日記」(文春文庫)。この本が、映画「おくりびと」の実質的な原作と言われています。
 「おくりびと」は、ご存じのとおり、俳優・本木雅弘さんが主演し、高岡市出身の滝田洋二郎さんが監督を務めた映画。日本アカデミー賞や米国アカデミー賞外国部門賞など、数多くの賞を受賞し、大きな話題を集めた映画です。

  本木雅弘さんが演じた、納棺夫。当時、まだ一般的ではなかった「納棺夫」という言葉。現在では「納棺師」として、マスコミでも取り上げられるようになったのも、この映画のおかげといわれています。

  青木新門さんは、オークス株式会社(富山市)の重役を経て、現在は非常勤顧問に。入善町出身で、30代にもおよぶ地主の長男として生まれた青木さん。様々な出来事を経て、納棺夫に。納棺の仕事を始めた頃は、叔父から「親族の恥さらし」とまで罵られ、親族と疎遠になる程に……。

  ある日、会社から渡された行き先の略図を頼りに訪ねると、そのお宅は、かつての恋人の家。玄関の前を行ったり来たりしながらも、意を決して家の中へ。本人は、見当たらず、ほっとして、彼女の父親の湯灌を始めます。

  「誰が見てもプロと思うほど手際よくなっていた。しかし汗だけは、最初の時と同様に、死体に向かって作業を始めた途端に出てくる。
 額の汗が落ちそうになったので、袖で額を拭こうとした時だった。いつの間に横に座っていたのか、額を拭いてくれる女(ひと)がいた。
 澄んだ大きな目一杯に涙を溜めた彼女であった。作業が終わるまで横に座って、父親の顔をなでたり、私の顔の汗を拭いたりしていた。
(中略)
 その父の死の悲しみの中で、その遺体の湯灌する私を見た驚きは、察するに余りある。
 しかし、その驚きや涙の奥に何かがあった。軽蔑や哀れみや同情など微塵もない。男と女の関係をも超えた、何かを感じた。私の全存在がありのまま丸ごと認められたように思われた。そう思うとうれしくなった。この仕事をこのまま続けていけそうな気がした。」「それからの納棺夫日記」(22P~24P)

  この場面は、「納棺夫日記」にも同じ記述がありますが、この箇所は何度読んでも熱いものがこみ上げてきます。

  
 心に残っている二人目は、井村和清(かずきよ)さん。

  著書「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」(祥伝社)は、100万部を超えるベストセラー。映画・テレビドラマにもなり、多くの話題を集めました。
 砺波市出身の井村さん。日大医学部卒業後、沖縄県や大阪府の病院で医師として勤務。骨肉腫となり、右足の膝から下を切断。それでも、片足で職場復帰。その後、肺に転移していることが判明し、32歳という若さで、この世を去られます。
 長女・飛鳥(あすか)ちゃんは、2歳の誕生日前。亡くなられた後、誕生した「まだ見ぬ子」次女・清子ちゃんは、まだお母さんのお腹の中。

  井村さんは、この遺稿集を書くあたり、このように語ります。

 「まもなく私は死んでゆかねばならない運命にあるのだ、と知ってから、ずっと考えていたことがありました。それは、残されたわずかの月日のうちに一冊の本を書きあげたいということでした。それは、私が三十年余、ここに生きたという証であり、私のために泣いてくれた人々への私の心からのお礼の言葉であり、そしてなによりも知らない幼いふたりの私の子供へ与えうる唯一の父親からの贈り物で、私の心の形見になると思ったからです」
「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」(祥伝社黄金文庫16P)

  そして、ふたりの子供たちへ

「心の優しい、思いやりのある子に育って欲しい。それが私の祈りだ。
 さようなら。
 私はもう、いくらもおまえたちの傍にいてやれない。おまえたちが倒れても、手を貸してやることはできない。だから、倒れても倒れても自分の力で起きあがりなさい。
 さようなら。
 おまえたちがいつまでも、いつまでも幸せでありますように。 父より」(同、21P)

 と祈りをこめて、言葉を残しています。

 井村和清さんのことを初めて知ったのは、確かNHKの特集番組。
 20代半ばだったと思います。富山県にも、このような人がおられたことに驚くとともに、井村さんの奥様・倫子(みちこ)さんが沖縄出身であり、家人との結婚を考えていた時期だけに、とても近しいもの感じていました。

 幼かったお二人も、すでに20歳を超えられました。
 本の中の写真を拝見すると、お二人とも目元がとてもお父さんに似ておられます。この立派に成長された姿を、どれだけ井村和清さんは見たかったことか……。

 
 青木新門さん、井村和清さん。
 お二人のような足跡を残せるはずもありません。
 同じような生き様をすることもできません。
 ただ、気負うことなく、自分なりに牛歩の歩みを続けたいと思います。(O)

健さんからの手紙

2015.03.02

春爛漫です。(枝)サンシュ(花)エビデンドラム、オーニソガラム、ホワイトレースフラワー(葉物)てまり草

春爛漫です。(枝)サンシュ(花)エビデンドラム、オーニソガラム、ホワイトレースフラワー(葉物)てまり草

 手紙を書くことが、めっきり減りました。

  昨年、書いた手紙は、ハガキを含めても、20通前後だったと思います。
 いつの間にか、筆不精になってしまいました。
 自分で言うのもおかしいですが、以前はもう少し筆まめでした。事あるごとに、時間を余り置くことなく、感謝の思いや伝えたいことなどを、近況を添えながら、すぐにしたためたものです。

  当然ながら、いただく手紙も少なくなりました。
 当たり前の事ですが、書かない者に手紙やハガキが届くはずがありません。

  生涯で一番手紙を書いたのは、間違いなく大学時代です。
 テレビを持たない主義でしたので、結構時間の余裕があり、読書とともに、多くの方にこまめに手紙を書いていました。夕方、バイト帰りに、アパートの郵便受けを見るのが楽しみでした。そっと取っ手を開け、「来てないかナー」と便りを待っていたものです。

 普段から、書きやすい万年筆を買い揃え、便箋も何種類か準備しています。
 美術館や博物館に行くと、決まって印象に残った絵画や展示物の絵葉書を買い求めています。手元にある絵葉書は、もう200枚近くになっていると思います。その中から節目あるごとに、差し出す方に合ったもの、時節に沿ったものを使うように心掛けています。切手も、郵便局で記念切手や珍しい切手を買い求めており、たかが切手かもしれませんが、少しでも受け取った方が喜んでいただければと思って揃えています。

 
 最近、高倉健さんの手紙を読む機会がありました。

 近藤勝重著「健さんからの手紙」(幻冬舎)です。
 もう健さんの新たな文章に触れる機会が無いと思っていただけに、とても嬉しかったです。健さんと、以前から親交があった毎日新聞社客員編集委員であり、早稲田大学大学院講師の近藤勝重さんとの手紙のやりとりを記したこの本。エッセイを書いた健さんとやや趣(おもむき)の異なる、生の息遣いが感じられました。

  健さんが、筆まめな方だったことを初めて知りました。

  近藤さんは、健さんから受け取った手紙について、こう語っています。
 「健さんの手紙をもらった人ならおわかりのとおり、実にすっきりして、手入れの行き届いた文の庭のような印象を受けます。そして読み終えると、無駄のない端正な文面のせいでしょうか、すっとした気持ちになれるのです。潔癖さとか律義さとか、相通じるものがあるんです。映画も手紙もやっぱり健さんの世界なんです。」(173p-174p)

 「健さんは有名、無名を問わず、人から受けた親切や、あるいは見ていてとても心が打たれたりすると、そのことを簡単に放っておける人ではありませんでした。想いをちゃんと丁寧に伝えるには手紙が一番だという、健さんなりの考えで文面をしたためていたのではないでしょうか。几帳面さと律義さ。ともに日本人が野放図な生き方の中で失いつつありますが、健さんの手紙は双方を併せて表現されたものに思われます」(帯)

  「あなたへ」が、健さんの遺作映画となりました。

 でも、既に次の映画の準備がかなり進んでいて、タイトルは「風に吹かれて」(仮題)だったとのこと、そして、健さんも準備に深くかかわっていたことを知り、驚きました。
 健さん主演の映画、「風に吹かれて」を観たかったです。
 
 
 健さんは生前、「風」に独特の想いを抱いていたそうで、よく「爽やかな風に吹かれたい」とも、語っていたそうです。

  健さんがそうであったように、及ばずながら私も、手紙やハガキを通じて、爽やかな風、清々しい春風を少しでもお届けできるものでありたいと思います。(O)

春を告げる、ふきのとうの苦み

2015.02.23

お雛さま、第2弾です。(枝)桃、(花)菜の花、コクンー、リューココリーネ、バラ、スプレーバラ

お雛さま、第2弾です。(枝)桃、(花)菜の花、コクンー、リューココリーネ、バラ、スプレーバラ

 昨日(22日)、春一番が吹きました。
 いよいよ、春到来です。
 三寒四温といわれる、この時期。少しずつ、春の芽吹きが感じられます。

  3月6日は、啓蟄(けいちつ)。
 二十四節季の一つである啓蟄。
 「啓は『ひらく』、蟄(ちつ)は『土中で冬ごもりしている虫』の意味で、大地が暖まり冬眠していた虫が、春の訪れを感じ、穴から出てくる頃」を表すそうです。

 2月半ば、雪融けした土手沿いの斜面で、レジ袋を持ったご夫妻を見ました。時折、腰をかがめておられたので、ふきのとうを採っておられたのでしょう。やや薄日が差しているとはいえ、まだ風が冷たく、肌寒い日にもかかわらず……。

 でも、ちょっと分かる気がします。

 寒空の冬景色から少しずつ解放され、春の訪れを心待ちにする気持ち。そして、春を告げる使者ともいえるふきのとうを摘み、旬の恵みを味わおうという思いが。

 独特の苦みと香りがあるふきのとう。
 特に「ふきのとう味噌」を、炊き立ての熱いご飯にのせて食べると最高です。「春が来たなー」という実感が湧きます。沢山のふきのとうを摘んでも、調理するとほんの僅かの量に。でも、小さい頃から馴れ親しんでいるせいか、おふくろが作ってくれるふきのとう味噌を食べないと、春が来た気がしません。

 先日、書店で三浦綾子さんの新刊「丘の上の邂逅」(小学館)を見つけました。
 三浦綾子さんが召天されたのは、平成11年10月。77歳でした。早いもので、もう16年の歳月が流れます。ご本人が亡くなられたので、もう新著は発行されないものだと、勝手に思っていました。そのため、店頭で三浦綾子さんの新著を見て、びっくり。
 どうも生前に執筆され、未発表のものが、編集者たちの努力により、少しずつ世に出て来ているようです。

  旭川に生まれ、旭川に育ち、ほぼ全生涯を旭川で過ごされた三浦綾子さん。
 旭川の冬は厳しく、土地の人は、その骨までしみとおる寒さを「凍(しば)れる」と表現するそうです。上川盆地が影響するためか、旭川は夏の最高気温が35℃近くまで上がり、冬は時にはマイナス25℃以下まで冷え込み、北海道の中でも寒暖の差が激しい所の一つといわれているそうです。

 その旭川について、三浦綾子さんは、このように語っています。長文ですが、引用させていただきます。

  「もしこの旭川が、きびしく長い冬を持たなかったら、それは何とつまらぬところであろう。長い冬の中で、人々は耐えるということを学ぶ。自然の厳しさに耐えるということである。それはまた、人生の厳しさに耐えるということでもある。しかも、只(ただ)漠然と耐えているのではない。そこには、春を「待つ」という積極的な姿勢がある。希望がある。待って待って、待ちくたびれるほど待った果てに春がある。春を迎える喜びは、北国の者でなければわからない。むさぼるように春を楽しむ。道端に咲くタンポポにも、庭にふくらむ木の芽にも、大いなる驚きと喜びとをもって、わたしは体全体で春を感ずる。」(「丘の上の邂逅」145p~146p)

  春を迎える喜びは、確かに長く厳しい冬を体験している、北国の者にしかわからないと思います。旭川ほどでは無いにしろ、雪国に育った者として、素直に共感できます。文中にある「むさぼるように春を楽しむ」という言葉に、すべての思いが凝縮されている気がします。

 東京に、小石川後楽園という小さな庭園があります。
 先日、上京した際に、ちょっと訪ねてみました。

  水戸光圀ゆかりの東京ドームに隣接した、この庭園。水戸徳川家の江戸上屋敷につくられた、築山泉水回遊式の大名庭園です。本駒込にある六義園(りくぎえん)とともに、好きな公園です。大都会・東京の都心に、このような自然が残されていること、そして、都会の喧騒から一歩足を踏み込むだけで、四季折々の草花や野鳥を十分楽しめることに、正直驚かされます。

 「梅まつり」開催中の小石川後楽園。
 温かな陽春を体いっぱいに浴びながら、庭内をゆっくり散策しました。苑内には、数多くの梅が植えられ、ちょうど白梅、紅梅などが咲き始めた頃で、福寿草や水仙も、あちこちで咲いてしました。残念ながら、まだ富山では味わえない春の息吹きを、ひとあし早く満喫させてもらいました。

 
 春は、人生の節目の時期でもあります。
 卒業、入学、退職、就職、人事異動など、人の歩みの多くの分岐点が、この春に集中します。
 明けない夜は無いといいますが、懸命に道を求める人は、かならず光に出会うと思います。新しい旅立ちを迎える人々に、幸多かれと祈ります。(O)

「本日 小田日和」

2015.02.16

おひな祭りです。(枝)リョーブ(花)オレンジジューム、アルストロメリア、トルコききょう(葉物)ナルコラン

おひな祭りです。(枝)リョーブ(花)オレンジジューム、アルストロメリア、トルコききょう(葉物)ナルコラン

 小田和正のコンサートに行ってきました。

  福井県鯖江、サンドーム福井で行われた小田さんのコンサート。
 「KAZUMASA ODA TOUR 2014~2015」。「本日 小田日和」と銘打って、開かれたコンサート。福井でのコンサートは、4年振りとのこと。
 年に10回前後、様々なジャンルのコンサートに出掛けていますが、多くはクラシック音楽。いつも静謐(せいひつ)で、咳払い、ひとつしづらいような演奏会がほとんど。
 今回のような熱狂的なライブは、生まれて初めて。もちろん、1万人クラスのドームコンサートも初体験。

  幅広い年代から愛され、根強い人気がある小田さん。チケットは、なかなか入手困難と言われ、通常は発売、即完売の状態。淡い希望はありますが、自分には無縁と思っていました。

  ところが、連日、テレビから小田さんのコンサートCMが流れてきます。
 家人から「行こう」と誘われます。「もう、今頃無いよ」と、つれない返事。それでも、たびたび誘われます。
 もうこれ以上、家人の気分を害して、明日から弁当がなくなると大変です。
 駄目もとで、翌日TELすると、呆気ないほど簡単にチケット2枚取れました。

 コンサート当日は、降雪。
 福井県内で、8号線で約200台がストップ。高速道路も、一部通行止めと最悪の状況。
 なぜか不思議と、何かやろうとすると、いつも悪天候。
 約3時間掛けて、会場の駐車場に着いたのは午後3時半。開演のちょうど3時間前。それでも、もうかなりの台数の車が止まっていて、ビックリ。冬空の中、エンジンを掛けて、ひたすら待つのみ。

  コンサートは、「ただ、素晴らしい」のひとこと。

  67歳という小田さん。どこにあれだけのパワーがあるのかと、驚くのみ。広いドームを縦横無尽に、上へ下へと、隅々まで走り回り、約2時間半歌いっぱなし。まったく衰えを感じませんでした。
 「キラキラ」「愛を止めないで」「言葉にできない」「woh woh」「ラブストリーは突然に」「さよなら」「たしかなこと」など、馴染み深いベストアルバムのほか、最新アルバムに入っている「愛になる」「この街」「二人」なども熱唱。
 さすがにラストの、2回目のアンコールを歌う頃には、やや擦れ声でしたが、最後までファンを大切にしようという小田さんの熱い思いは十分に伝わってきました。

  特別熱心なファンではありませんが、オフコース時代からずっと聞いています。独特の優しく、透き通った高音の小田さん。不思議な透明感に引き込まれます。
 歌詞も、心のひだに秘められた想いを、そっと語り掛けるものが多く、心に染み入ります。

  MC(曲と曲の間のおしゃべり)は、「今一つ」と謙遜する小田さん。でも、飾らない、素朴な人柄が滲み出ていて、おしゃべりも十分楽しめました。

  ただ、困ったことがひとつ。
 右隣に50代前半と思(おぼ)しき女性が座られましたが、小田さんの熱心なファンなのでしょう。飛び跳ねるは、大きく手を振るは、体全体でノリまくっています。体全体でリズムをとること自体、会場全体とマッチしていて構わないのですが、困るのは知っている曲を大きな声で歌われること。こちらは、小田さんの曲をゆっくり聞きたいのに、なぜか右耳からは女性の声が……。マー、綺麗な声だったからいいか……。

  「題名のない音楽会」の司会者で、指揮者の佐渡裕さんが、著書「僕はいかにして 指揮者になったか」(新潮文庫)の中で、「人間の声に勝る楽器はない」といった、内容のことを書いておられました。

  音楽が好きで、ほとんど毎日、何らかの音楽を聴いています。
 この頃は、サラ・ブライトマン、エンヤ、セリーヌ・ディオン、ケルティック・ウーマン、ヘイリー・ウェステンラ、キャサリン・ジェンキンス、セシル、シャルロット・チャーチなど、なぜか女性ボーカルに魅せられ、癒されています。

 もちろん楽器による音楽も素晴らしいですが、人の声にはどこか惹きつけられる響きがあります。

  小田和正さんのコンサート終了後、70代後半のおばあちゃんが杖を突きながら、お孫さんらしい若い女性に手を引かれながら、ゆっくり、ゆっくり出口に歩いている姿が見られました。
 おばあちゃんの顔に浮かんだ微笑みそのものが、このコンサートを象徴していたように感じられました。

  駐車場から道路に出るだけで、約1時間。
 無事帰宅したのは、午前1時ジャスト。

  なお、点数大幅アップにつき、当分は弁当を作ってもらえそうです。(O)

「なんくるないさー」

2015.02.09

今週は、バレンタインデーです。(枝)サンゴ水木(花)バラ、ガーベラ、カーネーション、サイネリア(葉物)レモンリーフ、ハートカズラ

今週は、バレンタインデーです。(枝)サンゴ水木(花)バラ、ガーベラ、カーネーション、サイネリア(葉物)レモンリーフ、ハートカズラ

 「なんくるないさー」という言葉があります。

  沖縄の方言で、「なんとかなるよ」という意味だそうです。
 単に「なんとかなるさ」という楽観的な展望を表すのではなく、むしろ「挫(くじ)けずに正しい道を歩む努力をすれば、いつか良い日が来るよ」という意味に近いそうです。

  この言葉が持つ、独特な柔らかな響きと、ほのぼのとした味わいが好きで、時々「なんくるないさー」と呟(つぶや)いています。

  家人の関係で、沖縄に時々出掛けています。
 何度足を運んでも、沖縄は好きな島であり、行くたびに新たな発見と不思議な魅力を感じます。那覇空港に着き、沖縄の独特なイントネーションと温かな人柄に触れると、ただそれだけでホッとさせられます。

  温暖な気候が関係しているのかもしれませんが、沖縄の人には良い意味で「なんくるないさー」的な考え方が、根底に流れている気がします。
 「なんくるないさー」という言葉は、初めから消極的に「なんとかなるさー」と捨て鉢になるのではなく、色々と創意工夫を重ね、精一杯努力したうえで、最後の最後に前向きに委ねる思いで、「なんくるないさー」と発するようです。昔から長い間、侵略や戦争に苦しんできた、沖縄の先人の知恵から滲み出てきた言葉なのかもしれません。

  「ケ・セラ・セラ」、そして「レット・イット・ビー」という言葉があります。

  「ケ・セラ・セラ」はスペイン語で、「なるようになるさ」という意味。
 「ケ・セラ・セラ」は、アメリカのドリス・デイが映画の主題歌として歌い、ヒットした有名な曲です。日本でも、ペギー葉山さんがカバーし、私にとっては懐かしい曲になっています。

  「レット・イット・ビー」は、もちろん言わずと知れたビートルズの名曲。
 中学2年生の時に大ヒットし、ビートルズの中で最も好きな曲の1つです。この「レット・イット・ビー」という言葉も、「あるがままに」「なすがままに」という意味だったと思います。

 先日、射水市新湊博物館に行って来ました。
 「石黒宗麿 人間国宝60周年記念」展を観るためです。
 石黒宗麿(むねまろ)さんは、射水市出身の陶芸家。昭和30年に初めて重要無形文化財保持者いわゆる人間国宝に、「鉄釉陶器」で認定されます。道の駅の横にある射水市新湊博物館。いつも全くといってよい程、入館者がおらず、ゆっくり展示物が観ることができ、気に入っています。陶器は、残念ながら門外漢ですが、素人なりに観ることが好きで、時々足を運んでいます。

  その石黒宗麿さんの作品の賛に、「必然看取」という言葉がありました。「ものごとには必然があって、そのまま従って生きていけば良い」という意味だそうです。「必然看取」は、もちろん「なんくるないさー」と意味する所は異なります。でも、何か手の届かない、大きな流れに身を委ねるという点では、共通するものがあるような気がしました。

 「なんくるないさー」。

 初めから何もしないのではなく、自分なりにあれこれ懸命に努力をしてみる。そのうえで、後の結果は自然の流れに我が身を委ねる。「人事を尽くして、天命を待つ」ではありませんが、ちょっとした心のゆとり、もう少し心の余裕が必要なのかもしれません。

  心は、快晴。肩の力を抜いて、「なんくるないさー」。(O)

なぜ私たちではなくあなたが?

2015.02.03

(枝)こでまり(花)スイートピー、ピンク・オレンジ・イエロー・ホワイト・紫(葉物)レザーファン

(枝)こでまり(花)スイートピー、ピンク・オレンジ・イエロー・ホワイト・紫(葉物)レザーファン

 ハンセン病という病気があります。

 天皇、皇后両陛下が先日、海外のハンセン病の元患者をお住まいである御所に招かれ、懇談されたことが、ニュースで流れていました。
  その中の一人、インドの代表は、懇談後の記者会見で、「両陛下は、私の話に静かに耳を傾けてくださいました。私は家族からも手を握ってもらえませんが、両陛下に握手をしていただき、その瞬間にいろいろな苦労や痛みが頭から消えました」と話していました。

  「ブラザー・サン シスター・ムーン」(監督:フランコ・ゼフィレッリ)という、とても素晴らしく、感動的な映画があります。
 「実在したイタリア、アッシジの聖フランチェスコの半生を描いたもので、物質的に恵まれた家に生まれたフランチェスコが、すべてを捨てて神とともに生きる道を歩み、最後にはローマ法王に謁見を許され、祝福を受ける」という内容です。
 映画のワンシーンに、多くの人がハンセン病を恐れ、避けているにもかかわらず、フランチェスコがハンセン病を病む人びとともに生活し、病人の傷を川の水で洗い、傷口から出てくる膿をぬぐう場面が出てきます。

 ハンセン病は、らい病とも言われ、隔離政策が取られていたなど、漠然と知っていたつもりでしたが、映画の中とはいえ、初めてハンセン病の人を見て、驚きを覚えるとともに、ハンセン病に苦しむ人々に誠心誠意尽くすフランチェスコの姿に感じるものがありました。

 神谷美恵子さんという方がおられました。

 精神科医で、津田塾大学の教授でもあった神谷さん。
 神谷さんの著書「生きがいについて」(みすず書房)を読んだのは、20歳の頃。昭和41年の初版から現在に至るまで、名著として名高いこの本。正直言って難解で、なかなか読み進めることが出来ず、時間を要しましたが、読了後、言い知れぬ深い感銘を受けました。
 以来、神谷さんの豊かな教養と人間性に魅せられ、「こころの旅」、「人間をみつめて」など、著書を買い求め、ほとんどの本を読み終えました。特にみすず書房から全集が発刊された時は、発行される隔月を心待ちにしたものです。

 確か秋篠宮妃殿下・紀子さまも、神谷美恵子さんの愛読者と聞いた覚えがあります。

 神谷さんは、津田塾大学2年生の時、叔父・金沢常雄さんに伴われてハンセン病療養所・多摩全生園を訪れ、初めてこの病いを知ったことが、人生の大きな転機となります。
 学生時代、当時死病ともいわれた結核に罹り、軽井沢で療養。結核は、完治しますが、自ら結核に苦しむ中で、医師としてハンセン病患者に奉仕しようとの思いが強まり、東京女子医学専門学校に入学。女子医専を卒業とともに、東京大学精神科に入局され、精神科医として活躍されます。

  ハンセン病患者に対する思いは変わらず、卒業前に岡山県のハンセン病療養所・長島愛生園を訪ね、その後、約10年間、妻として、2児の母として、家庭を守りながら、兵庫県芦屋から瀬戸内海の離島にある長島愛生園まで通い、精神科医として大きな足跡を残されます。

  神谷美恵子さんは、著書「生きがいについて」の中で、ハンセン病の国立療養所に入所している人を対象に精神医学的な調査をしたことを紹介しています。
 調査に応じた男性軽症患者の半数の人が、将来になんの希望もないと記したそうですが、その回答の中には、生きるよろこびを大いに感じさせるものもあったとのことです。同じ条件、同じ環境のなかにいても、ある人は生きがいを感じられなくて悩み、ある人は生きるよろこびにあふれています。

 この違いは、どこから来るのだろうかと……。

 神谷美恵子さんの代表的な詩がありますので、紹介させてもらいます。(O)

 「癩者に」

 光うしないたる眼うつろに

 肢うしないたる体担われて

 診察台にどさりと載せられたる癩者よ、

 私はあなたの前に首を垂れる。

 あなたは黙っている。

 かすかに微笑んでさえいる。

 ああしかし、その沈黙は、微笑みは

 長い戦いの後にかち得られたものだ。

 運命とすれすれに生きているあなたよ、

 のがれようとて放さぬその鉄の手に

 朝も昼も夜もつかまえられて、

 十年、二十年と生きてきたあなたよ。

 なぜ私たちではなくあなたが?

 あなたは代わって下さったのだ、

 代わって人としてあらゆるものを奪われ、

 地獄の責苦を悩み抜いて下さったのだ。

 許して下さい、癩者よ。

 浅く、かろく、生の海の面に浮かび漂うて、

 そこはかとなく神だの霊だのと、

 聞こえよき言葉をあやつる私たちを。

 かく心に叫びて首をたるれば、

 あなたはただ黙っている。

 そして痛ましくも歪められたる顔に、

 かすかなる微笑みさえ浮かべている。

素敵な笑顔の人

2015.01.26

(花)シンピジューム、グロリオーサ、バラ、スプレーバラ(葉物)モンテラス、ゴットセファナ

(花)シンピジューム、グロリオーサ、バラ、スプレーバラ(葉物)モンテラス、ゴットセファナ

 笑顔の素敵な人がいます。
 登山家の田部井淳子さんです。

  1975年、世界最高峰エベレストに女性で初めて登頂に成功した田部井さん。
  その田部井さんが、「余命3か月?…」と癌を宣告され、手術を受けられていたと聞き、大変驚きました。いつも笑顔が絶えず、元気いっぱいで、福島独特の温かみのある語り口で話す田部井さん。
  1992年に7大陸最高峰の登頂を女性で初めて達成され、世界各地の有名な山々を踏破され、丈夫で頑丈な女性で、病気とは全く無縁な方と思っていました。
 むしろ、あのさわやかな笑顔に病魔の方が恐れおののくのでは……と。

 田部井さんの癌のことを知ったのは、NHKラジオ深夜便。
 ご自身の口から淡々と、あたかも他人事かのように、癌からの克服、そして抗がん剤治療の合間を縫って、山に向かう日々を語られました。

  近著「それでも わたしは山に登る」(文藝春秋)によると、2度目の癌がわかったのは2012年3月。東京・がん研有明病院での検査の結果、腹膜癌でステージは3C期。抗がん剤を12回投与し、手術を受け、さらに抗がん剤を12回受けたとのこと。吐き気、おう吐、食欲不振、脱毛、しびれなど、激しい副作用を経験されたとのこと。

  田部井さんの凄いのは、抗がん剤点滴の間も、登山を続けられたことです。
 「しばらくすると副作用が出はじめた。がんをつぶした薬の効果はてき面だが、その副作用もかなりのものだ。むろん個人差はあるというが、わたしの手足のしびれは強かった。それでもわたしは点滴の合間に山に行き、歩き続けた」(3P)

  「今ががんばり時なのだから歩こう。そうだ、今がんばらなくて、いつがんばる。こうがん剤のつらさを耐えるのは今なのだ。弱音をはかず、楽しいことをいっぱい考えて乗り切ろう」(138P)

  70歳を超えてから、癌を発病した田部井さん。
 抗がん剤治療をはじめた3月から7月の手術までの間に、福島、山梨、埼玉、大分、岩手、秋田、北海道など、信じられないほど数多くの山を踏破されます。
 現状は、ひどい副作用に苦しみつつ、
 「太ももが上がらない。ひざに力が入らない。息が切れる……。つらいことはたくさんあったが、山に来られたといううれしい思いのほうが強い」(141P)

 あくまでも山に挑もうとする、その精神力の強さ。
 私には到底理解できませんが、そこが山の持つ魅力なのでしょうか。

  幸いなことに、田部井さんの癌はほぼ消失し、寛解(かんかい)となったとのこと。今も抗がん剤による副作用とみられる手足のしびれが残こり、体調は万全ではないとのこと。それでも、精力的に登山を続けておられます。
 一方では、2011年3月11日の東日本大震災で、生まれ故郷の福島が原発事故による放射能漏れと風評被害で、未だに復興のきざしが見えていないことに心を痛め、様々な支援活動も続けられています。

  小学校5年生の時、島津亮一という若い先生が担任でした。
 山あいの小さな小学校で、クラスはわずか18名。先生はスポーツマンで、とても教育熱心な方でした。授業中、脱線することが多く、色々な話をされましたが、1つだけ覚えている言葉があります。

  「男は40歳になったら、自分の顔に責任を持ちなさい」

  確かリンカーンの言葉だといわれた気がします。
 特別、優秀な生徒でもなく、平均的な子で、勉強の事はすべて綺麗に忘れましたが、なぜかこの言葉だけが心に残っています。人は持って生まれた顔があるが、歳とともに自分の新しい顔を作り上げるものだと、話されたように記憶しています。
 はっきり言って、当時の自分には難しい話でしたが、その頃からこのようなことに興味を示すところがありました。

 果たして、もうじき還暦を迎えようとする私の顔は……。

  田部井淳子さんの写真は、いつも笑顔が満ちています。
 テレビから拝見する田部井さんも、満面の笑みで、常に前向きな姿に励まされます。多くの苦難を抱えながらも、あの内側から滲み出るほほえみ。
 なにか、とても尊い気がします。
 その笑顔だけで、その存在だけで、周りをほのぼのと明るくする。周りの人々の心に、そっと小さな燈を灯す。
 そのような素敵な笑顔の人が、羨ましいです。

  ご存知かもしれませんが、詩人・相田みつをさんの詩をご紹介します。(O)

 「ただいるだけで」

 あなたがそこに

 ただいるだけで

 その場の空気が

 あかるくなる

 あなたがそこに

 ただいるだけで

 みんなのこころが

 やすらぐ

 そんな

 あなたにわたしも

 なりたい

 

森繁久彌さんのテヴィエ

2015.01.20

(花)オンシジューム、ゆり、トルコききょう、スイートピー(葉物)ドラセラ、ユーカリ

(花)オンシジューム、ゆり、トルコききょう、スイートピー(葉物)ドラセラ、ユーカリ

 生涯で、一度だけミュージカルを観たことがあります。
 森繁久彌さん主演の「屋根の上のヴァイオリン弾き」です。

  大学3年の冬だったことは、微かに覚えていましたが、ネットで確認したところ、その日は昭和53年12月26日でした。なぜ日まで特定できたのかというと、その日が最終公演日、千秋楽だったからです。

  東京・帝国劇場の「屋根の上のヴァイオリン弾き」は、今も根強い人気がありますが、その当時も大きな話題を集めていました。
 主演・テヴィエ役の森繁久彌さんは、まさに「はまり役」。大変な人気を博し、1967年の初演以来、ロングランを続け、記録を更新。時々、新聞の下段広告欄に、チケットの販売状況が掲載されていましたが、1日2回の公演分も含め、ほぼ完売状態。
 マスコミ各社も、森繁さんのテヴィエ役の好演ぶりを大きく取り上げていました。

  いつもの悪い癖で、「屋根の上のヴァイオリン弾き」を無性に観たくなり、最終日の前日、ダメもとで帝国劇場に電話してみました。
 係員曰く、チケットはS席もA席も完売で、当日売りのB席ならば若干あるとのこと。ただし、枚数に制限があるため、当日、チケット売り場に並んで購入できなくても、売切れ御免とのこと。

  12月26日。
 からっ風が吹く真っ暗の中、アパートを午前6時過ぎに出発。
 地下鉄・都営三田線の日比谷駅を降り、帝劇のチケット売り場に着くと、なんと既に並んでいる人が……。自分なりに早く出たつもりが、上には上が……。改めて、「屋根の上のヴァイオリン弾き」の人気の根強さを思い知らされました。都会特有のビル風が吹く中、外で待つこと2時間余り。何とかチケットを入手することが出来、万々歳。本当に嬉しかったです。

  席は、2階席の右側後方。
 ステージが遠く感じられ、大袈裟に言うと、斜め上から下をのぞき込むような感じ。
 それでも、席に着くと不思議なことに、帝国劇場の格調の高さや荘厳さまで伝わってきて、それだけで満たされた思いに。

  森繁久彌さんのテヴィエ、まさに圧巻でした。

 到底、言葉に言い尽くせない程の感動を受けました。もう35年以上も昔の事になりますが、その日のステージのことは今も鮮明に覚えています。

  どうしても見たいという強い願望はあったのですが、実をいうと、「屋根の上のヴァイオリン弾き」は、何の話なのかほとんど知りませんでした。
 かの有名な「サンライズ・サンセット」の歌が、このミュージカルのテーマソングであることすら知らず、ステージからこの曲が流れて来て、初めて驚くような有様。
 でも、無知な私にも十分理解できる内容でした。むしろ、変に予備知識がなく、白紙の状態で聴けたことが、良かったのかもしれません。

  物語は、帝政ロシア時代のとある村が舞台。
 牛乳屋テヴィエを中心に娘達の結婚話を描いたもので、最後はロシア人の迫害を受けて一家は村を去る、という悲劇的な物語ですが、ユーモラスなテヴィエのおかげで、ほのぼのとした雰囲気が満ちていました。

  その日の配役を確認すると、森繁久彌さんのほか、妻・淀かほる、長女・大空眞弓、次女・安奈淳、さらに谷啓、友竹正則、益田喜頓、安田伸さんなど、もう故人になられた方もおられますが、錚々たるメンバーが揃っています。

  ミュージカル終了後、記録的なロングランの千秋楽ということもあったためか、カーテンコール、カーテンコールの連続で、拍手が10分以上、鳴りやみませんでした。

 それからというもの、すっかり「屋根の上のヴァイオリン弾き」のファンに。
 さすがにミュージカルを観る機会はありませんでしたが、映画鑑賞をすることに。当時、都内には名画座という映画館が、各所にありました。古典的な名作を300円で鑑賞でき、高田馬場の早稲田松竹、飯田橋の佳作座、池袋の文芸座など、よく通ったものです。館内が古く、椅子も狭いといった難点がありましたが、貧乏学生にはもう十分。「屋根の上のヴァイオリン弾き」も、4、5回は観たと思います。ミュージカルもさることながら、映画の「屋根の上のヴァイオリン弾き」も、違った意味で素晴らしかったことを覚えています。

 
 18日の日曜日、高岡市にある「ミュゼふくおかカメラ館」に行って来ました。

 南砺市出身の写真家、安念余志子さんの写真展「光 のどけき」を見るためで、安念さんは富山県人として初めて、風景写真界の芥川賞ともいわれている、権威ある写真賞「前田真三賞」を受賞されたとのこと。
 写真展では、富山県内はじめ、青森、岐阜、長野、新潟、石川など、全国各地で撮影された風景写真が、数多く展示されていました。四季折々の美しい風景写真を、独自のタッチで撮影され、心洗われる思いで鑑賞させてもらいました。

  この頃、しみじみと思います。

 なるべく良いものを観よう。少しでも本物に触れようと。
 「屋根の上のヴァイオリン弾き」も、安念余志子さんの写真展も、私にとって少なからず心の琴線に触れるものがあり、今も心に響きわたっています。
 地上での生活が、後どれだけ残されているのか、知る由もありませんが、自然でもいい、音楽でもいい、美術でもいい、本でもいい、とにかく心に響く本物を大切にしたいと、日々思っています。(O)

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