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「セイ!ヤング」から「ラジオ深夜便」へ

2015.01.13

(枝)啓翁桜、こでまり(花)スプレーバラ、スイートピー(葉物)レモンリーフ

(枝)啓翁桜、こでまり(花)スプレーバラ、スイートピー(葉物)レモンリーフ

 NHK「ラジオ深夜便」が、放送開始25周年を迎えます。
 放送開始前のテスト段階から、「ラジオ深夜便」を愛聴させてもらっている一人として、25年の時の流れに感慨深いものがあります。

 ラジオ好きは、今に始まったことではなく、中学生時代から。
 約45年前の中学・高校時代、ラジオから流れてくる深夜放送をよく聞いたものです。勉強しながら、ラジオから流れてくる深夜放送を聞く。俗にいう「ながら族」のハシリです。親は毎日、夜遅くまで熱心に勉強していると思っていたことと思います。しかしながら、実のところは、ただ深夜放送に夢中になっていただけ。さすがに毎日は聞けませんでしたが、深夜放送を聞いた日は学校で「オイ、聞いたか」と仲間たちと、大いに盛り上がったもの。
 ただ、ラジオの性能が良くない時代のこと。周波数をうまくキャッチ出来ず、苦労したものです。

 ニッポン放送「オールナイトニッポン」、TBS「パックインミュージック」、文化放送「セイ!ヤング」など、当時はまさに深夜放送の黎明期。
 どちらかというと、オールナイトニッポン派が多い中で、こちらはもっぱら「セイ!ヤング」中心。その頃のパーソナリティーは、レモンちゃんこと・落合恵子、土居まさる、みのもんた、谷村新司など。今から考えると、すごいメンバーです。ただ、ナッチャコ(野沢那智と白石冬美)の日だけは、パックインミュージックにダイヤルを合わせました。

 その頃よく聞いた曲は、「悲しき鉄道員」(ショッキング・ブルー)、「悲しき天使」(ダニエル・ビダル)、「あなたのとりこ」(シルヴィ・バルタン)、「雨」(ジリオラ・チンクエッティ)など。レコード盤など買う金が無く、ラジオから流れてくる曲をカセットテープで必死に録音したものでした。

 時は流れ、今は「ラジオ深夜便」のファン。

 「ラジオ深夜便」は毎晩、200万人もが聞いているという人気番組。放送は、午後11時20分から午前5時まで。もちろん、すべての時間帯を聞くことは不可能。寝入りばなか、せいぜい途中目覚めた時に、ダイヤルを合わせる程度。でも、あのアンカーのゆっくりとした口調、そして大河が流れるような静かなゆったりとした時間が、歳を重ねるとともに丁度良いようです。

 好きなアンカーは、森田美由紀アナと須磨佳津江アナ。以前は、柴田祐規子アナの柔らかな語り口が気に入っていましたが、残念ながら静岡放送局へ異動されました。

 若い時は、どれだけ寝ても寝不足気味でしたが、50歳の峠を越えた頃から、5時間も寝れば十分な体となりました。この頃では、なぜか夜中に目覚めることが多くなり、一度目が覚めるとなかなか寝付かれず、ついつい「ラジオ深夜便」へ。
 気持ちはいつも若いつもりですが、体は正直なもの。間違いなく老化が進んでいるようです。

 ラジオ深夜便は、時間帯別に様々な番組がありますが、どうしても3時台「にっぽんの歌こころの歌」、4時台「明日へのことば」を聞くことが多いようです。
 特に「明日へのことば」は、各界で活躍する著名人へのインタビューを通して、その人の人生観に触れるもので、「こころの時代」といわれた頃から愛聴しています。「明日へのことば」に、「森のイスキア」主宰・佐藤初女さん、ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さん、金城学院学院長・柏木哲夫さん、聖路加国際病院副院長・細谷亮太さん、国立がんセンター名誉総長・垣添忠生さんなど、好きな方が登場される時は、事前にチェックし、起きて聞くようにしています。
 著書とは異なり、肉声から伝わる独特の味わいがあるからです。

 30代前半に転勤で4年間、東京勤務したことがありました。
 あることから東京交響楽団の首席チェロリストのベアンテ・ボーマンさんと親しくなり、ご夫人のルリ子さん、子供さん達とともに、旅行に出掛けるなど、家族ぐるみのお付き合いをさせていただきました。
 ある時、何気なくラジオを付けると、ボーマンさんの懐かしい声が流れてきてビックリ。ラジオ深夜便の「明日へのことば」に登場されたもので、懐かしいやら、驚くやら。近況をお伺いすることが出来て、とても嬉しかったです。

 加齢とともに、どうやらラジオ依存度は高まる一方のようです。
 この調子では、「ラジオ深夜便」はさらに大切な「夜のお友達」になりそうです。(O)

四畳半一間の木造アパート

2014.12.22

クリスマス本番です。(花)バラ、カーネーション、モカラ、かすみ草(枝)コットン(葉物)ゴールドクレスト、レモンリーフ

クリスマス本番です。(花)バラ、カーネーション、モカラ、かすみ草(枝)コットン(葉物)ゴールドクレスト、レモンリーフ

 FMラジオから、バンバンの「『いちご白書』をもう一度」が流れています。

  この曲を聴くと、いつも学生時代を思い出します。
 大学1年生のとき、大ヒットしたこの曲。フォークソング世代の1人として、「22才の別れ」「神田川」「なごり雪」などとともに、この曲を聴くたびに、大学時代の哀愁に満ちた切ないものを感じます。

  東武東上線・上板橋駅近くの、四畳半一間の木造アパート。
 1階の角部屋から、私の学生生活が始まりました。
 大学4年の姉が借りていたアパートで、たまたま空室が出たため、早速契約。共同トイレで、半畳の台所付き。もちろん風呂なしで、月額9,000円。2カ所ある窓のうち、片側の窓際に会社の家族寮があり、光が射すのは片方だけ。洗濯物が乾きにくく、困ったものでした。

  大家さんは、法務省勤務の奥さんで、社会人の娘さんと、2階で2人暮らし。
 携帯電話など無い時代。大家さんの固定電話が連絡先となり、電話が掛かるたびに、2階の大家さんから窓越しに呼び出しの声がして、お詫びしながら、2階の茶の間に駆け上がることに。大家さんには、なぜか大変可愛がっていただき、「余ったから」と、おいしいおかずをたびたび差し入れて頂きました。

  東京生活で、まず困ったことが風呂。徒歩2分に銭湯「第一亀の湯」があり、風呂好きな私にとっては有難たかったのですが、お湯の熱いこと。2つある風呂の、ぬるいはずの風呂でさえ、足を入れるのがやっと。横にある水道から水を差そうもなら、周りから冷たい視線が――。家庭風呂で育った我が身には、あの異常な熱さはかなり厳しいものがありました。平気な顔で入浴している「東京のみなさま」に、ただ、ただ尊敬の念。でも、不思議なことに、あれ程熱かったあの銭湯が、いつの間にか快適に――。慣れとは、恐ろしいものです。

  1年後、姉が大学卒業とともに、勤務先近くの世田谷区へ引っ越し。
 いよいよ私の自炊生活がスタート。3年間、朝食、夕食と、ほぼ欠かさず作りました。昼は、大学で学友達と学食を食べましたが、朝夕は料理好きなためか、裸電球一つの半畳の台所で、包丁を握り続けました。
 ただ、困ったのは、大好きな魚を焼く時。ガスコンロでゆっくり焼き上げる訳ですが、換気扇など付いているはずもなく、部屋中煙だらけに。サンマを焼こうもなら、匂いが部屋中にしみつき、困りました。
 大手スーパーがありましたが、姉にならって、近くの八百屋や魚屋、街角にあった豆腐屋さんなどを利用し、オヤジさん達とすっかり顔馴染みになり、よくまけてもらったものです。

  大学のクラスメイトは70名。北海道から鹿児島まで、文字どおり全国各地から集まってきた仲間たち。ドイツ語を第2外国語として専攻し、1年から4年までずっと同じクラス。といっても、クラス単位の講義は、1・2年は英語とドイツ語、体育など。3・4年は、経済原論の原書講読ぐらい。
 大学のクラスにしては、まとまりが良く。1年の時から年に3~4回コンパを続け、出席率も良く、卒業時も「お別れコンパ」を盛大に開催。なぜか幹事は、4年間通して私の役目。クラスの中で一番おとなしい私が、入学時に、どうして互いに名前も十分にわからない中で、幹事に選ばれたのか、いまだに謎です。
 卒業する際、クラスメイトにそれぞれの出身地の住所録が入った、「サヨナラ文集」を渡そうと、私が手作りで作成し、その時手伝ってくれたのが、今の家内です。

  クラスメイトに福岡県出身のⅠ君がいました。
 母子家庭の一人っ子で、4年になるまで朝日新聞の取次所に住込み、朝刊と夕刊を配達し、仕送りなしで頑張っていました。疲れのためか、最低限の授業にしか出ず、ひたすら読書の世界に埋没し、クラッシック音楽鑑賞の日々。登校しても、学生服に破帽、下駄履き姿の独特の出で立ち。一般教養の時は、授業がつまらなかったせいか、成績は今一つだった様子。でも、英語に関しては、クラスでは群を抜いていました。
 夏は蒸し風呂、冬は寒冷地の、彼の狭い下宿によく出掛け、語り合ったものでした。

  3年から共にN教授のゼミ生となり、日本経済論を学び、彼は4年時にゼミ長に。専門課程に入ると、猛烈に幅広く学び、抜群の成績に。卒業時には日本銀行の最終面接に残ったほど。結局、大学院に進み、卒業後、私学からは難関の東京大学社会科学研究所の助手に採用されます。国費で英国の大学に2回留学。帰国後は、国立大学の講師から助教授に。40代半ばで母校に戻り、経済学部の教授に。
 教授になってからも、決して偉ぶる素振りもなく、ゼミのOB総会で再会し、年賀状のやり取りが何十年も続いていました。

 50代過ぎから、急に彼から年賀状が届かなくなり、どうしたのかと思っている内に、55歳の時、突然、彼の訃報を知り、本当に驚きました。肝硬変だったとのこと。
 どうして連絡してくれなかったのかと残念であり、何よりも将来を大いに嘱望されていた彼だけに、本人が一番つらかったことと思います。

  3年前上京した際、たまたま時間が空き、あのアパートを訪ねてみたくなりました。
 当然、都市開発で跡形もなく、取り壊されていると思ったのですが、昔の姿のまま残っていました。
 35年近くも経過しているにもかかわらず――。
 正直、とても懐かしかったです。でも不思議と、侘しい思いが込み上げてきました。

 結局、4年間生活した古びたアパート。引越し代金もなく、そのまま同じ部屋に居座った訳ですが、住み心地が良く、人々にも恵まれ、良い思い出があの部屋に凝縮されています。
 老朽化したアパートには、今は誰ひとり住む人もなく、近くで洋服店を営む大家さんの妹さんによると、大家さんは7~8年前に他界されたとのこと。

  バンバンの「『いちご白書』をもう一度」に

    雨に破れかけた街角のポスターのように
   過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる

  とのフレーズがあります。

  この歌を聴くたびに、もうセピア色になりつつあるあの学生時代が、哀愁を帯びて、鮮やかに心に蘇るのです。(O)

PS.
いつも拙文をお読みいただき、ありがとうございます。
もし許されるなら、もうしばらくこのブログを続けさせてもらいたいと考えています。
少し早いですが、良いお年をお迎えください。

高峰秀子流 暮らしの流儀

2014.12.15

(花)デンファレ、ホワイトレースフラワー(実)サンキライ(葉物)ゴールドクレスト、丸葉ルスカス

(花)デンファレ、ホワイトレースフラワー(実)サンキライ(葉物)ゴールドクレスト、丸葉ルスカス

 女優・高峰秀子さんが旅立たれて、もうじき4年目を迎えます。

 先日、北日本新聞に「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」が発表され、1位は男優が三船敏郎さん、女優が高峰秀子さんだった、との記事が載っていました。これは、映画雑誌「キネマ旬報」を発行するキネマ旬報社が、同誌創刊95周年を記念して、評論家や文化人ら映画に造詣の深い181人に、アンケートを実施したものです。ちなみに、11月に亡くなった高倉健さんは男優で4位、男優の現役俳優では、ただ一人役所広司さんが8位にランクインしていました。

  高峰秀子さんが1位とあり、内心嬉しく思いました。
 というのは、実は高峰秀子さんのファンだからです。
 といっても、高峰さんの主演映画で観たものは「二十四の瞳」ぐらいで、女優・高峰秀子というより、エッセイストとしての高峰秀子さん、゛にんげん・高峰秀子さん゛のファンといった方が正しいかもしれません。

  「わたしの渡世日記」(文春文庫、上下)で、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した高峰秀子さん。
 文章が秀逸で、独特のユーモアとリズム感があり、とにかくうまい。5歳から子役として活躍し、仕事が忙しかったため、学校へ行きたくとも行けず、小学校から学校と名の付くものとは、全くと言っていいほど無縁だったという高峰さん。にもかかわらず、あれだけの語彙力と博識は、読書などによる独学と聞き、本当に驚かせられます。

 高峰秀子さんは生前、知っている範囲では約25冊の本を執筆しておられます。
 最近、復刻版が出版されていますが、それでも入手困難なものもあり、私が読み終えた本は残念ながら10数冊にすぎません。その中で好きな1冊をと言われれば、迷わず「わたしの渡世日記」を選びます。

  高峰さんは、2010年12月28日に86歳で亡くなられました。
 遺作となった本は、「高峰秀子 暮らしの流儀」(新潮社、とんぼの本)です。
 この本は、脚本家であり、映画監督でもある夫・松山善三さんと晩年に養女となる作家・斎藤明美さんと、ご本人の家族3人による共著です。この本の中に、高峰さんの考え方や生き方などがエキスとして凝縮されており、生(なま)の高峰さんを知るうえで大変興味深い本といえます。

  本の中で、斎藤明美さんは養母・高峰秀子さんのことを
 「どんな名作のスクリーン上よりも、家の中で生きることを選んだひと。信条は、清潔整頓。身の丈に合った生活。台所仕事に精を出し、おいしいごはんをつくること。゛にんげん高峰秀子゛のその潔い暮らし方、静かな日々の営みに、本当の幸せ、人間の喜びがある。」(6P)と記しています。
 この短い文章に、高峰秀子さんの50代半ばでの引退後の生き方が、すべて凝縮され、言い尽くされている気がします。

  300本以上もの映画に出演した大女優・高峰秀子さん。
 引退後は、世間から極端なまでに意図的に乖離(かいり)し、愛する松山善三さんとの日々を大切にし、自分らしく生きることに徹底しています。立派な豪邸を壊して、敢えて小さな家に建て替え、家政婦さんを置くこともなく、自らの手で、日々、潔癖なまでに整理整頓し、食材を活かした料理にこだわり、料理本まで残されています。
 そして、何よりも大好きな読書三昧の静寂で、充実した時間を過ごされました。

 著書「高峰秀子 暮らしの流儀」にあるような、時代が移り変わろうとも輝きを失わない、「本物」の営み、凛とした生活を少しでも積み重ねられたらなーと思っています。(O)

PS.ブログには、花の写真を掲載しています。
   以前にもご案内したとおり、この花は農協会館1階のエントランスに飾られているもので、近くのお花
  屋さん「立山農園」さんが、毎週、創意工夫しながら活けてくださっています。
   写真をクリックするとさらに拡大して、全体がご覧になっていただけます。ぜひ、お試しください。

ちょっと早めの老い支度

2014.12.08

(花)カラー、トルコききょう、スプレーデルフ、スイートピー(実)バーゼリア(葉物)ドラセナ、レザーファン

(花)カラー、トルコききょう、スプレーデルフ、スイートピー(実)バーゼリア(葉物)ドラセナ、レザーファン

 エッセイスト・岸本葉子さんの講演会に行ってきました。

  6日、土曜日の午後、サンフォルテで開かれた講演会。
 「わくわく人生セミナー」の第1回目の講師として、岸本葉子さんが招かれたものです。人気エッセイストとあって、定員50名(申込先着順)に対し、200名以上もの応募があり、結局、会場を会議室からホールに変更して開催されました。

  「ちょっと早めの老い支度」と題して、語られた岸本さん。
現在53歳で、独身の岸本さん。在宅介護で認知症のお父さんを、妹さんの助けや公的な介護支援を受けつつ、基本的には岸本さん一人で6~7年にわたって介護し、今年90歳で看取られたとのこと。得がたい経験にもとづき、「親の介護」「住まい」「健康」「エンディングノート」「身辺整理」など、人生を楽しみながら老いを迎えるヒントや心づもりを語られました。

  40代、50代。「老い」は決して、他人ごとではなく、漠然としながらも確実に自分の身に迫ってきています。そして、一方では介護する立場として、親の「老い」と正面から向き合い、時には重くとも、親の老いをしっかりと背負っていくものと思います。

  講演で、心に残ったお話を紹介します。

  岸本さんのお父さんは、最後は入院されたそうです。
 点滴を受けていても、認知症のお父さんはいつの間にか針を抜いてしまうそうです。抜けないように、ボクシングのグローブのように両手を覆っても、それでも見ていないうちに、上手に針を抜いでしまうそうです。そのたびごとに、岸本さんはナースステーションへ行き、看護師さんに頭を下げ、お詫びをして、再び点滴をお願いします。
 でも、看護師達さんは、嫌な顔を一つもされなかったそうです。

 というのは、お父さんは自分で針を抜くにもかかわらず、針を入れるときは看護師さんに対し、毎回「お世話になります」と笑顔で接したそうです。認知症のお父さんは、状況をよく理解出来ていないにもかかわらず、自分に接する人に対しありがとうと言える心、常に感謝できる心が内側にあったそうです。
 笑顔のお父さんに、看護師さんは気持ちよく、点滴の準備が出来たわけです。

  認知症が重くなっても、感謝の思いが持てること。自然に「ありがとう」の言葉が口から出て、優しく他人に接することができること。
 これらは、一朝一夕に身に付くものでは無く、若いころからの日々の心の持ちようが、たとえ認知症になったとしても、自分で意識しなくても、無意識のうちに滲み出てくるのではと、岸本さんは語ります。

  豊かな老いを迎えるためには、健康も、経済的な支えも、住まいも、当然大切です。でも、一番大切なのは、感謝の心を持ち日々を生きることであり、老い支度の根本はここにあるのではと、講演を終えられました。

  東大教養学部を卒業され、美人なエッセイストとして、有名な岸本さん。
 40歳の時、虫垂がんに罹り、大きな手術を受けておられます。詳しくは、著書「がんから始まる」(文春文庫)に記述してあり、がんに関する著書も多くあります。講演で、ご自身の癌から克服された経緯を語られるのかと思っていましたが、軽く触れられたのみでした。

  岸本さんの講演は、初めから終わりまで、静かな語り口の中にも、明るく、軽妙な流れがあり、エッセイの文脈と変わらないナ――と、感じました。
 数多くある岸本葉子さんのエッセイを、また読ませてもらおうと思います。(O)

もう健さんの文章が読めない。

2014.11.26

 

(花)ガーベラ、シンピジューム(枝)ヒペリカム(葉物)ポボラス、ドラセナ、シラス

(花)ガーベラ、シンピジューム(枝)ヒペリカム(葉物)ポボラス、ドラセナ、シラス

 高倉健さんが、83歳で旅立たれました。
 突然の訃報に、とても驚きました。人知れず、忽然(こつぜん)とこの世を去る姿は、いかにも健さんらしい気がします。

 家内も映画好きなため、時間を合わせて、時々邦画を中心に観に出掛けます。
 健さんの遺作となった映画「あなたへ」も、2年前、ロードショーとともに観に行きました。映画終了後、家内も私も目頭が熱くなり、字幕スーパーが流れている間、言い尽くせない深い余韻の中に浸っていました。周りも、席を立つ人がほとんどなく、すすり泣く声があちこちで聞こえていたことを覚えています。

 健さんの映画を初めて観たのは、山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」でした。
 大学生だったその当時から、高倉健さんは大変人気がありました。でも、私にとっては「任侠映画の俳優」というイメージが強く、かってに嫌悪に近いものすら抱いていました。それだけに、「幸福の黄色いハンカチ」を観た時は、不器用ながら朴訥(ぼくとつ)と誠実に生きる主人公と、健さんがダブって映り、すっかり健さんの人柄に魅せられました。
 以来、折に触れ、健さんの映画を観てきました。好きな映画を強いて挙げるとすれば、「鉄道員(ぽっぽや)」です。

 健さんのお母さんが亡くなった時、健さんは「あ、うん」という映画の撮影中でした。葬儀に間に合わず、1週間後、ふるさと福岡に帰ったそうです。お線香をあげ、おがんでいるうちに、おかあさんの骨を見たくなり、仏壇の骨箱をあけます。お母さんの骨を見ているうちに、むしょうに、おかあさんと別れたくなくなって、骨をバリバリかじってしまったそうです。そばにいた妹さんたちが、驚いて悲鳴をあげ、気が狂ったのかと思ったとのこと。でも、そうではない。りくつではなく、そのとき、おかあさんと、どうしても別れたくないと強く思った。と、著書「南極のペンギン」(集英社文庫)に、健さんは著しています(85P)。

  健さんが、エッセイストであることは、意外でした。
 安価本や絶版本、珍しい本を見つけるため、時々、BOOK・OFF(ブックオフ)に足を運びます。7、8年前だったと思いますが、本棚で「高倉健」の名前を見つけて驚きました。人違いかと思いました。俳優のイメージと作家のイメージとが、どうしても一致しなかったからです。やはり、あの「高倉健」さんでした。

  その時、手にした本が、「南極のペンギン」です。
 逝去を知り、改めて再読しました。健さんらしい、飾らない、いい本です。まるで、童話を読んでいるような、心温まる不思議な本です。中でも「ふるさとのおかあさん」が、特に好きです。知っている限りでは、健さんは他に「旅の途中で」(新潮文庫)と「あなたに褒められたくて」(集英社文庫)を残しておられます。
 著書「あなたに褒められたくて」の最後に、お母さんに関する随筆が載っています。

 お母さん。僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、あなたが嫌がっていた背中に刺青(ほりもの)を描(い)れて、返り血を浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福の黄色いハンカチ』の夕張炭鉱、雪の『八甲田山』。北極、南極、アラスカ、アフリカまで、30数年駆け続けてこれました。
別れって哀しいですね。
いつも――。
どんな別れでも――。(202P)

 頑固で、優しくて、そして有難い母だったんです。
 自分が頑張って駆け続けてこれたのは、あの母に褒められたい一心だったと思います。(201P)

 背筋の伸びた、たくましい健さんの後ろ姿。その背骨には、いつもお母さんの言葉があったといいます。
 「辛抱ばい」
   「家族に恥ずかしいことをしなすんな」
 健さんは今頃、愛するお母さんの膝許に帰って行かれたのでしょうか。

  映画もさることながら、もう健さんの新たな文章が読めないと思うと、淋しいです。(O)

アンケートの回答、ありがとうございます。

2014.11.19

 

(花)カラー、シンピジューム、トルコききょう、てまり草(枝)梅もどき(葉物)モンステラ、ドラセラ、ゴットセファナ

(花)カラー、シンピジューム、トルコききょう、てまり草(枝)梅もどき(葉物)モンステラ、ドラセラ、ゴットセファナ

お客様アンケートの回答、ありがとうございます。

 今年2月から、当会館9階会議室の貸出しを始めました。
 空き部屋だった事務室をリニューアルし、新たに5部屋の会議室を新設したものです。
 当初、ご利用の申込みが少なかったのですが、4月以降は、大変ありがたいことにご利用がかなり増加しています。もちろん近隣の県民会館さんが、現在、免震工事を実施中ですので、その関係で当会館の利用が増加したものと思います。

 会議室の新設とともに、4月からお客様アンケートを実施しています。
 会議室やホールを利用された後、利用料金の請求書を発送しますが、その際アンケートを同封し、記入後、FAXで送付していただくという方法です。

 主なアンケートの設問は、
1.会議室等を利用された満足度は、いかがですか?
2.会議室、備品等の料金設定は、いかがですか?
3.スタッフの応対は、いかがでしたか?
4.今後も、会館を利用したいと思われますが?
5.利用された感想を、自由にご記入ください。
6.ご要望やご意見、改善点がありましたら、自由にご記入ください。
といった内容です。

  貸会議室業を進めていく中で、CS(Customer Satisfaction)、顧客満足度を常に確認していくことは、とても大切なことと考えています。
 1階事務所にいると、実際に利用されるお客様の声に気づかないことがあります。大概のお客様は、初めに事務所に立寄られ、終わられた後、改めて事務所に顔を出されます。途中何かあれば、内線電話等で連絡が入り、その都度、対応させてもらっています。それでも、後日改めてアンケートを記入して送っていただけることは、重要な事と考えています。大変嬉しいことに、一定数のご回答をいただいています。

  手元に届いたアンケートは、事務所内部で回覧のうえ、専務・会長にもまとめて報告しています。お客様からご指摘やご意見があり、対応すべき事柄があった場合は、その結果も報告書に記述しています。

  当事者としては、変な言い方かもしれませんが、お褒めの言葉をいただくより、問題点やクレーム、何か気付かれたことを、そのまま率直に書いていただく方がありがたいです。外部の方が利用されて初めて分かることが、結構あるからです。ある一人の方が思われたことは、他の方も当然感じておられるはずです。単に言葉に出しておられないだけだと思います。こちらとして避けたいのは、何も言われないまま、その後利用されないことです。声なき声が、一番怖いです。

  現在、県内はもちろんの事、東京や神奈川、愛知、大阪、兵庫、新潟、石川県など、今までに申込みがなかった県外の新たな会社や法人、各種団体様からのご利用が増えています。単なる会議や研修に止まらず、従来に無かったレイアウトや利用形態による、ご利用も増加しています。

  正直言って、会館は施設が古く、様々な制約があります。
 しかし、何よりも会議室やホールを利用されたお客様が、少しでも気持ちよくお帰りいただけるよう、スタッフ一同業務に励みたいと思います。
 たかが、会議室かもしれません。されど、会議室なのです。(O)

プランターによる野菜栽培

2014.11.11

 

(花)グラジオラス、グロリオーサ、ダリア(葉物)ヒペリカム、レザーファン

(花)グラジオラス、グロリオーサ、ダリア(葉物)ヒペリカム、レザーファン

 今年初めて、プランターによる野菜栽培にチャレンジしました。

 きっかけは、大平光代さんの著書「陽だまりの時間」(中公文庫)です。
もちろん、土地のない都会暮らしの人々が、マンションのベランダなどで、プランターを使ってキュウリやピーマン、トマトなど、野菜を栽培していることは知っています。
 ただ、どう考えても豊かな土地がある富山では、プランター栽培は無縁と考えていました。

 大平さんは、ダウン症の娘さん、悠(はるか)ちゃんのために、大阪から兵庫県の静かな山里に移り住んでおられます。少しでも新鮮でおいしい野菜を食卓に並べようと、自宅の庭で野菜栽培を始めますが、水はけがよくなったため、うまく育ちません。そこで、プランター栽培に切り替えたところ、ナスやキュウリ、ミニトマト、パプリカ、トウモロコシなど、数多くの野菜が収穫できているとのこと。

 この本を読んだのは、5月の連休明け。
 早速、ミニトマトやミディトマト、パセリ、シシトウ、とうがらし、ゴーヤ、オクラの苗を購入。母が畑で、キュウリやトマト、なす、ピーマンなど、夏野菜のほとんどを栽培しているため、敢えてマイナーな野菜でチャレンジすることにしました。

   初めての体験でしたが、結果として、オクラ以外、すべて成功。ミニトマトとミディトマトは、7月上旬から10月中旬まで、驚くほど収穫できました。おかげで、家内が作ってくれる弁当に、これでもか、これでもかという程、毎日トマト君が登場。ゴーヤも、わずか4本しか植えなかったにもかかわらず、すくすく伸びて、軒下まで広がる立派なカーテンが誕生しました。よく「緑のカーテン」という言い方をしますが、私にも出来ました。ただ、ゴーヤの実が思ったより大きくならなかったことが、残念でした。

 花も、プランターや鉢で20鉢ほど栽培しましたが、立派に咲き揃い、晩秋の今に至るまで、玄関先を豊かに飾ってくれています。4月中旬から現在まで、このように花々を楽しめることは、大変ありがたいことです。今年初めて植えた朝顔も、ゴーヤに負けないくらい、軒下までツルが伸び上がり、4種類の花をいつまでも楽しめました。
 家人によると、今年はいつになく、庭先に小鳥やミツバチ、蝶の飛来が多かったそうです。

  日々の水やりと適度な肥料の施肥。
 ただ、これだけの繰り返しですが、毎日野菜と花の生育を見ていると、嬉しいもの。オクラやカスミソウのように、失敗したものもありますが、朝晩、少しずつ育っていくのを見るのは、やはり楽しいものです。

 大平光代さんも、山里暮らしながら、庭でハーブを育て、料理に腕を振るい、子育てに真剣に向き合い、明るく生きておられます。かつては、弁護士として、また大阪市助役という多忙な中で生きていた大平さん。今は、子育てに奮闘中で、「野菜作りは子育てと一緒で、なかなか思うようにいかないけれど、少しずつ育っていくのを見るのはうれしいもの」と語っておられます。私たちが忘れがちな、「1日1日を丁寧に感謝して生きる」豊かさが、「陽だまりの時間」にあふれています。

 来年も、自分なりに野菜づくりと花栽培を楽しみたいと思います。
 それと、大平さんに教えていただいた「乾燥野菜」。今年は、残念ながら器具だけを購入し、全く手つかずに終わりましたので、来年こそチャレンジするつもりです。(O)

ある一冊の本

2014.11.05

 

(花)ゆり、オンシジューム、デンファレ、(枝)どうだんつつじ(葉物)ピット、レザーファン

(花)ゆり、オンシジューム、デンファレ、(枝)どうだんつつじ(葉物)ピット、レザーファン

「人生は邂逅(かいこう)である」といったのは、文芸評論家の亀井勝一郎氏だったと思います。
 邂逅とは、思いがけない出会いやめぐり合いという意味です。自分の人生を振り返った時、ある人に出会ったことやある一冊の本を読んだこと、また、小さな出来事がひとつの転機になったということは、よくあることと思います。

 私にとって、邂逅のひとつは、三浦綾子さんの著書「塩狩峠」です。
 高校2年の秋に学校の図書館でふと手にした、この本。著者の名前も知らず、書名も聞いたこともありませんでしたが、何気なく読み進むうちに、惹きつけられ、一気呵成に読み終えました。
 既に読まれた方も、おられると思います。明治末年、主人公・永野信夫が、結納のため旭川から札幌に列車で向かう途中、塩狩峠の頂上にさしかかった時、突然客車が離れ、暴走し始めます。鉄道職員であった信夫は、すぐにハンドブレーキに手をかけますが、列車は止まりません。結局、自らの命を犠牲にして大勢の乗客の命を救ったという、実話にもとづく小説です。こんな生き方もあるんだと、衝撃に近いものを受けました。  
   以来、三浦綾子さんの本をもっと読みたくなり、「道ありき」「塩狩峠」「この土の器をも」など、一連の著書を貪るように読んだことを覚えています。

 そのうち、三浦綾子さんに直接会いたくなり、今から丁度40年前の大学1年生の夏休みに、ご自宅のある北海道旭川市を訪ねました。
 訪問したい旨を電話で告げると、秘書の方に丁重に断られました。当然です。見ず知らずの者が、突然押しかけるのですから…。しかしながら、どうしても諦めきれず、住所を頼りに訪ね歩き、ご自宅に着いたのは午後8時半過ぎ。大変失礼と思いつつ、チャイムを押すとご主人の光世(みつよ)さんが出てこられ、快く受け入れてくださいました。残念ながら綾子さんは不在でしたが、光世さんと30分余り語らいの場を持たせていただきました。不躾な訪問にもかかわらず、光世さんは温かく誠実に接してくださり、今振り返っても心温まる思いがします。
 結局、綾子さんとは、翌年の夏休みに北海道大樹町の牧場で働かせてもらった後、旭川に立ち寄り、お会いすることが出来ました。

 三浦綾子さんは、約80冊の著書を執筆されたと聞いています。
 三浦さんの本で、読んでない本はおそらく無いと思います。いつも発刊されるのを心待ちにし、店頭に並ぶと同時に購入したものです。三浦さんは、生前、多くの難病に罹っておられます。そのため、思うように出版が進みませんでしたが、一冊、一冊を絞り出すように、あたかも遺言を書くように執筆されている気がしていました。

好きな本を強いて挙げるとすれば、「塩狩峠」「道ありき」「泥流地帯」「銃口」です。特に「塩狩峠」と「道ありき」は、節目あるごとに読んでおり、これまでに7、8回読んだと思います。同じ本でありながら、不思議と毎回新たな発見があります。

  
 先日NHKで、三浦綾子さんの本が東北地方、特に3.11の災害にあった地域で、よく読まれているという報道がありました。中でも、「泥流地帯」は、厳しい自然災害を扱っているだけに、多くの共感を呼んでいるとも聞きました。三浦綾子さんの本が、色々な方に用いられていることは、嬉しい限りです。

  先日の10月30日に、三浦光世さんが亡くなられました。90歳だったそうです。
 「道ありき」に出てくる前川正さん、三浦光世さんが私の目標でした。遠く及ばない存在でしたが、漠然としながらもお二人に近づきたいと思っていました。
 三浦光世さんにとっては、あの夜の出会いは、小さな出来事であり、もう記憶にもなかったと思います。でも、私にとっては、新たな道へ踏み出す第一歩の夜となりました。改めて、感謝しています(O)

10月27日  (花)スプレーバラ、ガーベラ、カーネーション(実)秋明菊の実(葉物)木苺

10月27日  (花)スプレーバラ、ガーベラ、カーネーション(実)秋明菊の実(葉物)木苺

10月20日  (花)ダリア、マリーゴールド、アンスリューム(枝)つる梅もどき(葉物)ドラセラ、コンパクター、ヒペリカム紅葉

10月20日  (花)ダリア、マリーゴールド、アンスリューム(枝)つる梅もどき(葉物)ドラセラ、コンパクター、ヒペリカム紅葉

幻の名器・ストラディヴァリウス「デュランティ」

2014.10.15

ハロウィン、第2弾です。(花)トルコききょう、スプレー菊、カーネーション(枝)カンガルーポー(葉物)ファガス、木苺、レザーファン

ハロウィン、第2弾です。(花)トルコききょう、スプレー菊、カーネーション(枝)カンガルーポー(葉物)ファガス、木苺、レザーファン

20日に、千住真理子さんのヴァイオリンリサイタルが高岡文化ホールで開かれます。

千住真理子さんのリサイタルを聞くのは、今回が2回目。
前回は、2012年11月に県民会館で開かれた「アフタヌーン・スペシャルコンサート」。その時の曲目は、クライスラーの「愛の悲しみ」やサラサーテの「ツィゴイヌルワイゼン」など、小品5曲。クラシック音楽は、もとより門外漢な私ですが、あの運命的な出会いをした、幻の名器ストラディヴァリウス「デュランティ」の音色を聴けただけで、もう十分満足でした。

千住博氏、千住明氏、そして千住真理子さんと、有名な天才3兄弟。
長男の千住博氏は、東京芸大大学院を卒業され、国際的に活躍する日本画家。昨年まで、京都造形芸術大学の学長をされ、滝(ウォーターフォール)の絵がとても印象的です。
次男の千住明氏は、慶応大学工学部を中退して、東京芸大作曲科に入り直したという、異色の作曲家。ポピュラーからクラシックまで、幅広くジャンルを超えて作曲され、現在日本で最も注目される作曲家です。以前、NHK・Eテレの「日曜美術館」の司会をされていて、感性が豊かなうえに、飾らない人柄で、森田美由紀アナとの息もピッタシ。好感度、抜群でした。

千住真理子さんは、いうまでもなく日本を代表する世界的なヴァイオリニスト。
パンフレットによると、「2歳半よりヴァイオリンを始める。全日本学生音楽コンクール小学校の部全国1位。NHK交響楽団と共演し12歳でデビュー。日本音楽コンクールに最年少で優勝。パガニーニ国際音楽コンクールに最年少で入賞。1993年文化庁『芸術作品賞』、1999年、ニューヨーク・カーネギーホールでソロリサイタルを開き、大成功を収める。2002年秋、ストラディヴァリウス『デュランティ』との運命的な出会いを果たし、話題となる」とあります。

千住真理子さんが今日あるのは、母・文子さんの存在が大きかったようです。
詳しくは、文子さんの著書「千住家の教育白書」(新潮文庫)に記されています。超エリート家族の、子育てハウツー本かと軽い気持ちで手にしましたが、読み進むうちに、ただただ圧倒され、この母、この父、この温かい家庭があって、あの3兄弟があることを教えていただきました。

真理子さんは、当然、先天的にヴァイオリニストとしての、豊かな天賦の資質を持って生まれてこられたと思います。しかし、輝かしい才能を発揮される裏には、生半可ではない、信じられないような努力が積み重ねられ、影では、母・文子さんがしっかりと支えておられます。特に、かの有名な江藤俊哉氏に師事し、超人的なレッスンを受ける描写は鬼気迫るものがあり、母子でいかに難局を乗り越えて来たのか、心打つものがあります。

その文子さんが、昨年6月に87歳で永眠されました。
文子さんのがんが見つかり、余命宣告を受けてから、母娘の往復書簡を始めます。34通にも及ぶ手紙の中で、生と死について、東北大震災について、芸術とはなにか、女性の幸福とは何か、互いに真摯に語り尽しています。「命の往復書簡」(文芸春秋社)として出版されていますが、誠実な二人に感動するとともに、互いの魂が美しく響きあい、幾度も目頭を熱くしながら読ませていただきました。

千住真理子さんの演奏を生で聴く機会は、滅多にないと思います。
それだけに、最初ローマ法王の手元にあったというデュランティの音色を、心静かに聴かせていただくつもりです。

最後に、心に残った真理子さんの父・鎮夫さんの言葉をご紹介させてもらいます。

「ダイヤモンドというのは磨かないと光らないんだよ。そして傷をたくさんつけるんだ。そうするときらきら輝きはじめる。無数の傷がダイヤモンドの価値になっていくんだ。磨いていないダイヤモンドが砂浜にあっても誰も気づかない。でも、毎日毎日ダイヤモンドだと信じて磨いていたら、いつの日か輝いて、誰かが必ず見つけてくれる」千住文子著「千住家の教育白書」(新潮文庫、278P)(O)

 

昔懐かしいカレンダー

2014.10.06

今週は、ハロウィンです。(花)ガーベラ、ケイトウ、サンダーソニア(枝)ドラゴン柳(実)ヒペリカム(葉物)パニカム

今週は、ハロウィンです。(花)ガーベラ、ケイトウ、サンダーソニア(枝)ドラゴン柳(実)ヒペリカム(葉物)パニカム

早いもので、もう来年のカレンダーの申込用紙が届きました。

カレンダーは、業者の方からいただく一般的なものを使用していますが、自分なりにこだわっている一品があります。
それは、画家・向井潤吉さんのカレンダーです。

茅葺(かやぶ)き屋根の民家を、よく描いたことで知られる洋画家の向井潤吉さん。
向井さんは、1995年に93歳で亡くなられるまで、失われてゆく古民家や田園風景など日本の原風景を追い求め、全国各地を歩いています。作品の中心になっている民家と風景は、戦後間もない頃から描き続けられたもので、今ではほとんど見る事の出来なくなった懐かしい光景が、独特のタッチで描かれています。

向井潤吉さんを初めて知ったのは、一昨年9月に南砺市の福光美術館で開かれた展示会の時。
テレビで展示会のことを知り、早速、美術館に足を運びましたが、素晴らしい展示内容で、一つひとつの作品を食い入るように見せてもらいました。会場は、入館者がほとんどおらず、深い感動を受けながら、自分のペースで何回も見て回ったことを覚えています。
以前から絵画が好きで、時間を割いてはあちこちの美術館や博物館を回っていますが、向井潤吉さんの作品は初めて鑑賞させてもらったにもかかわらず、不思議と昔懐かしい思いを受けました。それ以来、すっかり向井潤吉さんのファンになりました。

向井さんの作品を見たくて、時々、東京・世田谷区にある向井潤吉アトリエ館を訪ねています。駒沢大学近くの閑静な住宅街の一角にあるアトリエ館。平成4年まで自宅兼アトリエであった建物と作品が保管されていた古い土蔵が、そのまま展示室として使用されています。新しく建設された近代的な美術館とは異なり、個人の住宅らしい自然な温もりと、長年、生活する中から育まれた息遣いが感じられ、独特の空間を作っています。
今まで違った季節に3回訪ねましたが、小さな庭もそれぞれ異なった彩りが感じられ、新鮮な思いでアトリエ館に入っています。
スタッフの方々も家族的で、いつも我が家に帰ってきたような不思議な思いにさせられます。全国に多くの美術館がありますが、常時、おいしいお茶が準備してある所はあまりないと思います。

たかが、カレンダーかもしれません。
でも、今から来年の向井潤吉さんのカレンダーが届くのを楽しみにしています。生涯、このカレンダーは買い求め続けると思います。(O、次回は10月15日に更新します)

 

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