小学校の閉校
2016.02.08
現在住んでいるA市で、小学校統合の話が出ています。
3地区にある小学校3校を統合して、別の場所に新しく小学校を建設しようというものです。今後、5年以内を目途に、地域と協議を進めたうえで、方向性を決定するそうです。
少子化が叫ばれて、久しい今日。
確かに周りでも、子供たちは少なくなっています。
平日はもちろんのこと、休日でも子供たちが遊んでいる姿を目にすることは、滅多にありません。40軒足らずの小さな町内ですが、小中学校へ通っている子供たちは、ごく少数のようです。
町内に児童公園があり、年に2~3回、町内あげて早朝から草むしりをしています。花壇にさまざまな花を植え、公園の整備もしています。子供向けの遊具も色々設置してありますが、公園で遊んでいる子供たちを見掛けることは、まずありません。
児童数が年々減少する中で、適正な規模を保つために、小学校を統廃合することは、自然な流れだと思います。ただ、小学校の統廃合については、何かと地域と密着しているだけに、地域に及ぼす影響は少なくないようです。
昭和40年代前半、もう半世紀も前のことになります。
B市の統廃合計画にともない、通っていた小学校が廃校となりました。小学校5年生の時です。
全校生徒、100人にも満たない小さな小学校。山あいにある、2階建ての古びた木造校舎。明治時代に尋常小学校として建てられ、長く地域で愛され、多くの卒業生を送り出して来ました。祖父も、祖母も、父も、母も、姉も、皆この小学校の卒業生でした。
校庭の周りに桜の木が多く植えられ、春には爛漫たる桜で満ち溢れ、葉桜も色鮮やかで、秋には色とりどりの紅葉で溢れていました。豊かな時代とは言えませんでしたが、あの小学校には、濃厚でゆったりとした時間が流れていた気がします。
6年生を卒業式で送り出した翌日、閉校式が行われました。
生徒や先生、卒業生、地域の人々、そして市役所の関係者ら。小さな体育館は、多くの人で一杯になりました。最後に校歌を歌う時に、なぜか無性に淋しくなり、大人の人たちと泣いたことを覚えています。
今も閉校したあの小学校の校歌を、ほぼ覚えています。中学校、高校の校歌は、まったく記憶にありませんが、不思議なものです。小学生には理解しづらく、格調の高い、漢文のような歌詞ですが、今となれば独特の味わいがあります。
4月から「街の小学校」に通い始めました。
約3.5キロ離れた平場の小学校。徒歩での通学は、小学生にとって結構遠く感じられました。それ以上に辛かったのは、女子生徒からの「いじめ」。転校して早々、「山ザル」とか「山の学校に帰れ」とか、面と向かっていわれました。帰れといわれても、帰る小学校はもうないのに……。理由が分からず、理不尽な思いをしたものです。
男子生徒とは、自然と打ち解けましたが、同じクラスの5~6人の女子生徒からは、なぜかヒソヒソ話をされたり、無視されたり、色々とありました。どうしてか編入した同学年の中で、一番つらくあたられた気がします。
今から思うと、どこか私に不遜な態度があったのかもしれません。
それでも、3~4カ月経つうちに、いじめはいつの間にか収まりました。
環境が変わったうえに、担任の先生も気付いてくれず、もちろん家族にも言えず、何とも言えない悶々とした日々を送りました。ただ、このメンバーには、「勉強でも、スポーツでも、絶対に負けないゾ」という闘志を、密かに燃やしていたことも事実です。
当時、「いじめ」という言葉は、一般化してなかった時期です。
でも、いじめ自体は、現在ほどではないにしろ、あったと思います。あの時のことは、いまだに小さなトゲとして、心に疼きます。忘れたくとも消し去れない、嫌な思い出です。わずかな期間とはいえ、いじめを体験したものとして、いじめを受けている人の痛みが、少しはわかる気がします。
いじめのリーダー的な存在だった女子生徒とは、中学校で同じ部活となりました。
同じブラスバンドの部活動を通じて、すっかり親しくなり、コンクールでも共に頑張りました。今では5~6年に1回開催している部活の同窓会で、会うことを楽しみにしている11人のメンバーの1人です。(O)