(花)りんどう(紅の唄)、オンシジューム(ボブキャット)、トルコききょう(ジャスニーホワイト)、カーネーション(カロンテ)(葉物)ゴットセファナ、谷渡り、玉シダ
自宅近くに大きな書店があり、週に1度、平台にある新刊本をチェックすることを楽しみにしています。
新しく出版される本や話題になっている本は、日頃から新聞の書評欄や広告欄などをひと通りチェックし、見落さないようにしています。へそ曲がりのせいか、俗にいうベストセラーの本を手にすることは、まずありません
新刊コーナーの平台6台の中から、思わぬ掘り出し本を見つけた時は、それだけで嬉しくなります。
今回、目に留まった本は、柴田よしき著「夢より短い旅の果て」(角川文庫)。
作家・柴田よしきさんは、推理作家であり、小説家としても有名です。
推理小説は興味がないため、読んでいませんが、「ばんざい屋シリーズ」の「ふたたびの虹」、「竜の涙 ばんざい屋の夜」(共に祥伝社文庫)の2冊については、読み終えています。特に「ふたたびの虹」は、過去にNHKでドラマ化され、主役の相田翔子さんの名演が心に残り、早速原作を読み、以来、すっかり柴田さんのファンになっています。
「夢より短い旅の果て」
パラパラとページをめくると、もう廃止となってしまった急行「能登」や「氷見線」といった言葉が目に飛び込んできます。何となく気になり、買い求めました。
急行能登といえば、思い出がいくつもあります。
1日1往復、上野と金沢間を結んでいた寝台急行能登。
東京の大学に進学した小生。上京や帰省の際には、結構この夜行列車にお世話になりました。かれこれ、もう40年前のことです。その当時、今のように格安な夜行バスがあるはずもなく、特急「白山」を利用する人が多く、夜行の寝台特急「北陸」や急行能登、急行越前などに乗る人もいました。
貧乏学生でしたので、よく急行能登に乗りましたが、高い寝台車を利用したことは一度もなく、いつも決まって自由席。
廃止された平成22年頃には、特急電車のようなモダンな車両になっていましたが、昭和50年代当時の能登といえば、年季の入った古めかしい車両でした。自由席の椅子は、木造の枠に布張りのやや硬めのボックスシート。天井でクルクル回る扇風機も、時代遅れの代物でした。
席が空いている時は、ボックスを独り占めして、「く」の字になって寝ました。夏山シーズンには、多くの登山者が通路や座席下に新聞を敷いて寝ていたものです。
どこでも寝られる性分のせいか、心地良い揺れとリズミカルな音に誘われ、いつの間にか眠りに着くことが出来ました。
それでも、真夜中、駅から発車する時の、車両と車両をつなぐ連結器が発する「ガクーン」という独特の振動に起こされ、時々目を覚ましました。
急行能登に、言うに言われぬ苦い思い出があります。
小生のせいで、走行中に急行能登を急停車させてしまったことです。
確か大学2年の、ゴールデンウイークの最終日だったと思います。
田植えの農作業を手伝うため、五月の連休中に帰省し、上京する時のことです。
急行能登は、金沢が始発で、3つ目にあたるA駅から乗車しました。いつもなら空いているはずの自由席がすでに満員、通路に立っている人もいます。連休最終日のためか、予想以上に観光客や上京する学生らで、ごった返しています。仕方がなく、車両後方の連結器付近になんとかスペースを確保し、自分のバックに腰かけました。
ところが、高岡駅、富山駅、魚津駅と停車するたびに、さらに多くの乗客が乗車してきます。知らない者同士ですが、互いに譲り合い、協力し合い、空きスペースを作り、乗れるように工夫します。この時点になると、多くの人が立ったままの状態でした。
直江津を過ぎた頃だったと思います。
皆で荷物を一カ所に積み上げたりして、わずかでもスペースが確保できるようにしていた際、何気なく角にあった白い紐(ひも)を引っ張ってしまったのです。
急行能登が、急に速度を落とし始め、急停車します。
窓の外を見ると、漆黒の闇の中。
何があったのだろうと周りの人と話していると、車掌さんが満員の車両の中を掻き分け、慌てて小生たちがいる所に向かってきます。
「何かあったのですか」
はじめ、車掌さんが言っている意味がわかりませんでした。
「非常ブレーキが作動して、緊急停車しました」
「作動位置を確認したところ、このあたりからサインが出ていました」
なんと小生が、張本人だったのです。
混雑した中で、場所を少しでも作ろうと皆で作業している中、たまたま手にしたロープが、なんと「非常用停止紐」だったのです。
確かに天井を見ると、小さく赤色でシールが表示してあります。
もちろんお詫びし、事の経過を説明します。周りの方々も、すぐに状況説明に加わり、助け舟を出してくださいます。年配の車掌さんは、すぐに理解してくださり、急いで先頭車両の方へ戻って行かれました。
程なくして、アナウンスが流れ、急行能登は何事もなかったように、ゆっくりと動き出します。
皆でホッとひと安心していたところに、先程の車掌さんが再びこちらに来ます。
手元に紙があり、小生の氏名、住所、電話番号、大学名等を記入してもらいたいとのこと。何もお咎めが無いものとかってに思っていたら、シャバはそう甘くありませんでした。
「意図的ではないにしろ、急行列車を非常停止させてしまったことは事実です。現状からみると、問題にならないと個人的には思いますが、業務上記録を残す必要がありますので、記入してください」
「東京に着いた後、関係部署に報告します。おそらく大事にはならないとは思いますが、後日改めて連絡を入れる可能性もあります」
もう、ガックリです。
A駅からほぼ立ちっぱなしで、全く眠っていないうえに、この有様。
疲れがどっと来ました。
東京に着いてからも、下宿のアパートに電話が入らないか、大学に連絡がいくのではないかと、毎日内心ビクビクものでした。意図的に悪いことをしたわけではないと思いつつも……。
しばらく陰鬱な日々を過ごしたことは、事実です。
数日が過ぎ、1週間が過ぎ、1カ月が過ぎ、結局国鉄からは何ら連絡もなく、書類も届きませんでした。
何を思って、あの白いロープを引いたのか、今も定かではありません。
やり場のない苦い思いを抱く時期もありました。
40年余り過ぎた今となっては、むしろ急行「能登」という言葉に何とも言えない、ほのぼのとした懐かしさを覚えます。(O)