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「本日 小田日和」

2015.02.16

おひな祭りです。(枝)リョーブ(花)オレンジジューム、アルストロメリア、トルコききょう(葉物)ナルコラン

おひな祭りです。(枝)リョーブ(花)オレンジジューム、アルストロメリア、トルコききょう(葉物)ナルコラン

 小田和正のコンサートに行ってきました。

  福井県鯖江、サンドーム福井で行われた小田さんのコンサート。
 「KAZUMASA ODA TOUR 2014~2015」。「本日 小田日和」と銘打って、開かれたコンサート。福井でのコンサートは、4年振りとのこと。
 年に10回前後、様々なジャンルのコンサートに出掛けていますが、多くはクラシック音楽。いつも静謐(せいひつ)で、咳払い、ひとつしづらいような演奏会がほとんど。
 今回のような熱狂的なライブは、生まれて初めて。もちろん、1万人クラスのドームコンサートも初体験。

  幅広い年代から愛され、根強い人気がある小田さん。チケットは、なかなか入手困難と言われ、通常は発売、即完売の状態。淡い希望はありますが、自分には無縁と思っていました。

  ところが、連日、テレビから小田さんのコンサートCMが流れてきます。
 家人から「行こう」と誘われます。「もう、今頃無いよ」と、つれない返事。それでも、たびたび誘われます。
 もうこれ以上、家人の気分を害して、明日から弁当がなくなると大変です。
 駄目もとで、翌日TELすると、呆気ないほど簡単にチケット2枚取れました。

 コンサート当日は、降雪。
 福井県内で、8号線で約200台がストップ。高速道路も、一部通行止めと最悪の状況。
 なぜか不思議と、何かやろうとすると、いつも悪天候。
 約3時間掛けて、会場の駐車場に着いたのは午後3時半。開演のちょうど3時間前。それでも、もうかなりの台数の車が止まっていて、ビックリ。冬空の中、エンジンを掛けて、ひたすら待つのみ。

  コンサートは、「ただ、素晴らしい」のひとこと。

  67歳という小田さん。どこにあれだけのパワーがあるのかと、驚くのみ。広いドームを縦横無尽に、上へ下へと、隅々まで走り回り、約2時間半歌いっぱなし。まったく衰えを感じませんでした。
 「キラキラ」「愛を止めないで」「言葉にできない」「woh woh」「ラブストリーは突然に」「さよなら」「たしかなこと」など、馴染み深いベストアルバムのほか、最新アルバムに入っている「愛になる」「この街」「二人」なども熱唱。
 さすがにラストの、2回目のアンコールを歌う頃には、やや擦れ声でしたが、最後までファンを大切にしようという小田さんの熱い思いは十分に伝わってきました。

  特別熱心なファンではありませんが、オフコース時代からずっと聞いています。独特の優しく、透き通った高音の小田さん。不思議な透明感に引き込まれます。
 歌詞も、心のひだに秘められた想いを、そっと語り掛けるものが多く、心に染み入ります。

  MC(曲と曲の間のおしゃべり)は、「今一つ」と謙遜する小田さん。でも、飾らない、素朴な人柄が滲み出ていて、おしゃべりも十分楽しめました。

  ただ、困ったことがひとつ。
 右隣に50代前半と思(おぼ)しき女性が座られましたが、小田さんの熱心なファンなのでしょう。飛び跳ねるは、大きく手を振るは、体全体でノリまくっています。体全体でリズムをとること自体、会場全体とマッチしていて構わないのですが、困るのは知っている曲を大きな声で歌われること。こちらは、小田さんの曲をゆっくり聞きたいのに、なぜか右耳からは女性の声が……。マー、綺麗な声だったからいいか……。

  「題名のない音楽会」の司会者で、指揮者の佐渡裕さんが、著書「僕はいかにして 指揮者になったか」(新潮文庫)の中で、「人間の声に勝る楽器はない」といった、内容のことを書いておられました。

  音楽が好きで、ほとんど毎日、何らかの音楽を聴いています。
 この頃は、サラ・ブライトマン、エンヤ、セリーヌ・ディオン、ケルティック・ウーマン、ヘイリー・ウェステンラ、キャサリン・ジェンキンス、セシル、シャルロット・チャーチなど、なぜか女性ボーカルに魅せられ、癒されています。

 もちろん楽器による音楽も素晴らしいですが、人の声にはどこか惹きつけられる響きがあります。

  小田和正さんのコンサート終了後、70代後半のおばあちゃんが杖を突きながら、お孫さんらしい若い女性に手を引かれながら、ゆっくり、ゆっくり出口に歩いている姿が見られました。
 おばあちゃんの顔に浮かんだ微笑みそのものが、このコンサートを象徴していたように感じられました。

  駐車場から道路に出るだけで、約1時間。
 無事帰宅したのは、午前1時ジャスト。

  なお、点数大幅アップにつき、当分は弁当を作ってもらえそうです。(O)

「なんくるないさー」

2015.02.09

今週は、バレンタインデーです。(枝)サンゴ水木(花)バラ、ガーベラ、カーネーション、サイネリア(葉物)レモンリーフ、ハートカズラ

今週は、バレンタインデーです。(枝)サンゴ水木(花)バラ、ガーベラ、カーネーション、サイネリア(葉物)レモンリーフ、ハートカズラ

 「なんくるないさー」という言葉があります。

  沖縄の方言で、「なんとかなるよ」という意味だそうです。
 単に「なんとかなるさ」という楽観的な展望を表すのではなく、むしろ「挫(くじ)けずに正しい道を歩む努力をすれば、いつか良い日が来るよ」という意味に近いそうです。

  この言葉が持つ、独特な柔らかな響きと、ほのぼのとした味わいが好きで、時々「なんくるないさー」と呟(つぶや)いています。

  家人の関係で、沖縄に時々出掛けています。
 何度足を運んでも、沖縄は好きな島であり、行くたびに新たな発見と不思議な魅力を感じます。那覇空港に着き、沖縄の独特なイントネーションと温かな人柄に触れると、ただそれだけでホッとさせられます。

  温暖な気候が関係しているのかもしれませんが、沖縄の人には良い意味で「なんくるないさー」的な考え方が、根底に流れている気がします。
 「なんくるないさー」という言葉は、初めから消極的に「なんとかなるさー」と捨て鉢になるのではなく、色々と創意工夫を重ね、精一杯努力したうえで、最後の最後に前向きに委ねる思いで、「なんくるないさー」と発するようです。昔から長い間、侵略や戦争に苦しんできた、沖縄の先人の知恵から滲み出てきた言葉なのかもしれません。

  「ケ・セラ・セラ」、そして「レット・イット・ビー」という言葉があります。

  「ケ・セラ・セラ」はスペイン語で、「なるようになるさ」という意味。
 「ケ・セラ・セラ」は、アメリカのドリス・デイが映画の主題歌として歌い、ヒットした有名な曲です。日本でも、ペギー葉山さんがカバーし、私にとっては懐かしい曲になっています。

  「レット・イット・ビー」は、もちろん言わずと知れたビートルズの名曲。
 中学2年生の時に大ヒットし、ビートルズの中で最も好きな曲の1つです。この「レット・イット・ビー」という言葉も、「あるがままに」「なすがままに」という意味だったと思います。

 先日、射水市新湊博物館に行って来ました。
 「石黒宗麿 人間国宝60周年記念」展を観るためです。
 石黒宗麿(むねまろ)さんは、射水市出身の陶芸家。昭和30年に初めて重要無形文化財保持者いわゆる人間国宝に、「鉄釉陶器」で認定されます。道の駅の横にある射水市新湊博物館。いつも全くといってよい程、入館者がおらず、ゆっくり展示物が観ることができ、気に入っています。陶器は、残念ながら門外漢ですが、素人なりに観ることが好きで、時々足を運んでいます。

  その石黒宗麿さんの作品の賛に、「必然看取」という言葉がありました。「ものごとには必然があって、そのまま従って生きていけば良い」という意味だそうです。「必然看取」は、もちろん「なんくるないさー」と意味する所は異なります。でも、何か手の届かない、大きな流れに身を委ねるという点では、共通するものがあるような気がしました。

 「なんくるないさー」。

 初めから何もしないのではなく、自分なりにあれこれ懸命に努力をしてみる。そのうえで、後の結果は自然の流れに我が身を委ねる。「人事を尽くして、天命を待つ」ではありませんが、ちょっとした心のゆとり、もう少し心の余裕が必要なのかもしれません。

  心は、快晴。肩の力を抜いて、「なんくるないさー」。(O)

なぜ私たちではなくあなたが?

2015.02.03

(枝)こでまり(花)スイートピー、ピンク・オレンジ・イエロー・ホワイト・紫(葉物)レザーファン

(枝)こでまり(花)スイートピー、ピンク・オレンジ・イエロー・ホワイト・紫(葉物)レザーファン

 ハンセン病という病気があります。

 天皇、皇后両陛下が先日、海外のハンセン病の元患者をお住まいである御所に招かれ、懇談されたことが、ニュースで流れていました。
  その中の一人、インドの代表は、懇談後の記者会見で、「両陛下は、私の話に静かに耳を傾けてくださいました。私は家族からも手を握ってもらえませんが、両陛下に握手をしていただき、その瞬間にいろいろな苦労や痛みが頭から消えました」と話していました。

  「ブラザー・サン シスター・ムーン」(監督:フランコ・ゼフィレッリ)という、とても素晴らしく、感動的な映画があります。
 「実在したイタリア、アッシジの聖フランチェスコの半生を描いたもので、物質的に恵まれた家に生まれたフランチェスコが、すべてを捨てて神とともに生きる道を歩み、最後にはローマ法王に謁見を許され、祝福を受ける」という内容です。
 映画のワンシーンに、多くの人がハンセン病を恐れ、避けているにもかかわらず、フランチェスコがハンセン病を病む人びとともに生活し、病人の傷を川の水で洗い、傷口から出てくる膿をぬぐう場面が出てきます。

 ハンセン病は、らい病とも言われ、隔離政策が取られていたなど、漠然と知っていたつもりでしたが、映画の中とはいえ、初めてハンセン病の人を見て、驚きを覚えるとともに、ハンセン病に苦しむ人々に誠心誠意尽くすフランチェスコの姿に感じるものがありました。

 神谷美恵子さんという方がおられました。

 精神科医で、津田塾大学の教授でもあった神谷さん。
 神谷さんの著書「生きがいについて」(みすず書房)を読んだのは、20歳の頃。昭和41年の初版から現在に至るまで、名著として名高いこの本。正直言って難解で、なかなか読み進めることが出来ず、時間を要しましたが、読了後、言い知れぬ深い感銘を受けました。
 以来、神谷さんの豊かな教養と人間性に魅せられ、「こころの旅」、「人間をみつめて」など、著書を買い求め、ほとんどの本を読み終えました。特にみすず書房から全集が発刊された時は、発行される隔月を心待ちにしたものです。

 確か秋篠宮妃殿下・紀子さまも、神谷美恵子さんの愛読者と聞いた覚えがあります。

 神谷さんは、津田塾大学2年生の時、叔父・金沢常雄さんに伴われてハンセン病療養所・多摩全生園を訪れ、初めてこの病いを知ったことが、人生の大きな転機となります。
 学生時代、当時死病ともいわれた結核に罹り、軽井沢で療養。結核は、完治しますが、自ら結核に苦しむ中で、医師としてハンセン病患者に奉仕しようとの思いが強まり、東京女子医学専門学校に入学。女子医専を卒業とともに、東京大学精神科に入局され、精神科医として活躍されます。

  ハンセン病患者に対する思いは変わらず、卒業前に岡山県のハンセン病療養所・長島愛生園を訪ね、その後、約10年間、妻として、2児の母として、家庭を守りながら、兵庫県芦屋から瀬戸内海の離島にある長島愛生園まで通い、精神科医として大きな足跡を残されます。

  神谷美恵子さんは、著書「生きがいについて」の中で、ハンセン病の国立療養所に入所している人を対象に精神医学的な調査をしたことを紹介しています。
 調査に応じた男性軽症患者の半数の人が、将来になんの希望もないと記したそうですが、その回答の中には、生きるよろこびを大いに感じさせるものもあったとのことです。同じ条件、同じ環境のなかにいても、ある人は生きがいを感じられなくて悩み、ある人は生きるよろこびにあふれています。

 この違いは、どこから来るのだろうかと……。

 神谷美恵子さんの代表的な詩がありますので、紹介させてもらいます。(O)

 「癩者に」

 光うしないたる眼うつろに

 肢うしないたる体担われて

 診察台にどさりと載せられたる癩者よ、

 私はあなたの前に首を垂れる。

 あなたは黙っている。

 かすかに微笑んでさえいる。

 ああしかし、その沈黙は、微笑みは

 長い戦いの後にかち得られたものだ。

 運命とすれすれに生きているあなたよ、

 のがれようとて放さぬその鉄の手に

 朝も昼も夜もつかまえられて、

 十年、二十年と生きてきたあなたよ。

 なぜ私たちではなくあなたが?

 あなたは代わって下さったのだ、

 代わって人としてあらゆるものを奪われ、

 地獄の責苦を悩み抜いて下さったのだ。

 許して下さい、癩者よ。

 浅く、かろく、生の海の面に浮かび漂うて、

 そこはかとなく神だの霊だのと、

 聞こえよき言葉をあやつる私たちを。

 かく心に叫びて首をたるれば、

 あなたはただ黙っている。

 そして痛ましくも歪められたる顔に、

 かすかなる微笑みさえ浮かべている。

素敵な笑顔の人

2015.01.26

(花)シンピジューム、グロリオーサ、バラ、スプレーバラ(葉物)モンテラス、ゴットセファナ

(花)シンピジューム、グロリオーサ、バラ、スプレーバラ(葉物)モンテラス、ゴットセファナ

 笑顔の素敵な人がいます。
 登山家の田部井淳子さんです。

  1975年、世界最高峰エベレストに女性で初めて登頂に成功した田部井さん。
  その田部井さんが、「余命3か月?…」と癌を宣告され、手術を受けられていたと聞き、大変驚きました。いつも笑顔が絶えず、元気いっぱいで、福島独特の温かみのある語り口で話す田部井さん。
  1992年に7大陸最高峰の登頂を女性で初めて達成され、世界各地の有名な山々を踏破され、丈夫で頑丈な女性で、病気とは全く無縁な方と思っていました。
 むしろ、あのさわやかな笑顔に病魔の方が恐れおののくのでは……と。

 田部井さんの癌のことを知ったのは、NHKラジオ深夜便。
 ご自身の口から淡々と、あたかも他人事かのように、癌からの克服、そして抗がん剤治療の合間を縫って、山に向かう日々を語られました。

  近著「それでも わたしは山に登る」(文藝春秋)によると、2度目の癌がわかったのは2012年3月。東京・がん研有明病院での検査の結果、腹膜癌でステージは3C期。抗がん剤を12回投与し、手術を受け、さらに抗がん剤を12回受けたとのこと。吐き気、おう吐、食欲不振、脱毛、しびれなど、激しい副作用を経験されたとのこと。

  田部井さんの凄いのは、抗がん剤点滴の間も、登山を続けられたことです。
 「しばらくすると副作用が出はじめた。がんをつぶした薬の効果はてき面だが、その副作用もかなりのものだ。むろん個人差はあるというが、わたしの手足のしびれは強かった。それでもわたしは点滴の合間に山に行き、歩き続けた」(3P)

  「今ががんばり時なのだから歩こう。そうだ、今がんばらなくて、いつがんばる。こうがん剤のつらさを耐えるのは今なのだ。弱音をはかず、楽しいことをいっぱい考えて乗り切ろう」(138P)

  70歳を超えてから、癌を発病した田部井さん。
 抗がん剤治療をはじめた3月から7月の手術までの間に、福島、山梨、埼玉、大分、岩手、秋田、北海道など、信じられないほど数多くの山を踏破されます。
 現状は、ひどい副作用に苦しみつつ、
 「太ももが上がらない。ひざに力が入らない。息が切れる……。つらいことはたくさんあったが、山に来られたといううれしい思いのほうが強い」(141P)

 あくまでも山に挑もうとする、その精神力の強さ。
 私には到底理解できませんが、そこが山の持つ魅力なのでしょうか。

  幸いなことに、田部井さんの癌はほぼ消失し、寛解(かんかい)となったとのこと。今も抗がん剤による副作用とみられる手足のしびれが残こり、体調は万全ではないとのこと。それでも、精力的に登山を続けておられます。
 一方では、2011年3月11日の東日本大震災で、生まれ故郷の福島が原発事故による放射能漏れと風評被害で、未だに復興のきざしが見えていないことに心を痛め、様々な支援活動も続けられています。

  小学校5年生の時、島津亮一という若い先生が担任でした。
 山あいの小さな小学校で、クラスはわずか18名。先生はスポーツマンで、とても教育熱心な方でした。授業中、脱線することが多く、色々な話をされましたが、1つだけ覚えている言葉があります。

  「男は40歳になったら、自分の顔に責任を持ちなさい」

  確かリンカーンの言葉だといわれた気がします。
 特別、優秀な生徒でもなく、平均的な子で、勉強の事はすべて綺麗に忘れましたが、なぜかこの言葉だけが心に残っています。人は持って生まれた顔があるが、歳とともに自分の新しい顔を作り上げるものだと、話されたように記憶しています。
 はっきり言って、当時の自分には難しい話でしたが、その頃からこのようなことに興味を示すところがありました。

 果たして、もうじき還暦を迎えようとする私の顔は……。

  田部井淳子さんの写真は、いつも笑顔が満ちています。
 テレビから拝見する田部井さんも、満面の笑みで、常に前向きな姿に励まされます。多くの苦難を抱えながらも、あの内側から滲み出るほほえみ。
 なにか、とても尊い気がします。
 その笑顔だけで、その存在だけで、周りをほのぼのと明るくする。周りの人々の心に、そっと小さな燈を灯す。
 そのような素敵な笑顔の人が、羨ましいです。

  ご存知かもしれませんが、詩人・相田みつをさんの詩をご紹介します。(O)

 「ただいるだけで」

 あなたがそこに

 ただいるだけで

 その場の空気が

 あかるくなる

 あなたがそこに

 ただいるだけで

 みんなのこころが

 やすらぐ

 そんな

 あなたにわたしも

 なりたい

 

森繁久彌さんのテヴィエ

2015.01.20

(花)オンシジューム、ゆり、トルコききょう、スイートピー(葉物)ドラセラ、ユーカリ

(花)オンシジューム、ゆり、トルコききょう、スイートピー(葉物)ドラセラ、ユーカリ

 生涯で、一度だけミュージカルを観たことがあります。
 森繁久彌さん主演の「屋根の上のヴァイオリン弾き」です。

  大学3年の冬だったことは、微かに覚えていましたが、ネットで確認したところ、その日は昭和53年12月26日でした。なぜ日まで特定できたのかというと、その日が最終公演日、千秋楽だったからです。

  東京・帝国劇場の「屋根の上のヴァイオリン弾き」は、今も根強い人気がありますが、その当時も大きな話題を集めていました。
 主演・テヴィエ役の森繁久彌さんは、まさに「はまり役」。大変な人気を博し、1967年の初演以来、ロングランを続け、記録を更新。時々、新聞の下段広告欄に、チケットの販売状況が掲載されていましたが、1日2回の公演分も含め、ほぼ完売状態。
 マスコミ各社も、森繁さんのテヴィエ役の好演ぶりを大きく取り上げていました。

  いつもの悪い癖で、「屋根の上のヴァイオリン弾き」を無性に観たくなり、最終日の前日、ダメもとで帝国劇場に電話してみました。
 係員曰く、チケットはS席もA席も完売で、当日売りのB席ならば若干あるとのこと。ただし、枚数に制限があるため、当日、チケット売り場に並んで購入できなくても、売切れ御免とのこと。

  12月26日。
 からっ風が吹く真っ暗の中、アパートを午前6時過ぎに出発。
 地下鉄・都営三田線の日比谷駅を降り、帝劇のチケット売り場に着くと、なんと既に並んでいる人が……。自分なりに早く出たつもりが、上には上が……。改めて、「屋根の上のヴァイオリン弾き」の人気の根強さを思い知らされました。都会特有のビル風が吹く中、外で待つこと2時間余り。何とかチケットを入手することが出来、万々歳。本当に嬉しかったです。

  席は、2階席の右側後方。
 ステージが遠く感じられ、大袈裟に言うと、斜め上から下をのぞき込むような感じ。
 それでも、席に着くと不思議なことに、帝国劇場の格調の高さや荘厳さまで伝わってきて、それだけで満たされた思いに。

  森繁久彌さんのテヴィエ、まさに圧巻でした。

 到底、言葉に言い尽くせない程の感動を受けました。もう35年以上も昔の事になりますが、その日のステージのことは今も鮮明に覚えています。

  どうしても見たいという強い願望はあったのですが、実をいうと、「屋根の上のヴァイオリン弾き」は、何の話なのかほとんど知りませんでした。
 かの有名な「サンライズ・サンセット」の歌が、このミュージカルのテーマソングであることすら知らず、ステージからこの曲が流れて来て、初めて驚くような有様。
 でも、無知な私にも十分理解できる内容でした。むしろ、変に予備知識がなく、白紙の状態で聴けたことが、良かったのかもしれません。

  物語は、帝政ロシア時代のとある村が舞台。
 牛乳屋テヴィエを中心に娘達の結婚話を描いたもので、最後はロシア人の迫害を受けて一家は村を去る、という悲劇的な物語ですが、ユーモラスなテヴィエのおかげで、ほのぼのとした雰囲気が満ちていました。

  その日の配役を確認すると、森繁久彌さんのほか、妻・淀かほる、長女・大空眞弓、次女・安奈淳、さらに谷啓、友竹正則、益田喜頓、安田伸さんなど、もう故人になられた方もおられますが、錚々たるメンバーが揃っています。

  ミュージカル終了後、記録的なロングランの千秋楽ということもあったためか、カーテンコール、カーテンコールの連続で、拍手が10分以上、鳴りやみませんでした。

 それからというもの、すっかり「屋根の上のヴァイオリン弾き」のファンに。
 さすがにミュージカルを観る機会はありませんでしたが、映画鑑賞をすることに。当時、都内には名画座という映画館が、各所にありました。古典的な名作を300円で鑑賞でき、高田馬場の早稲田松竹、飯田橋の佳作座、池袋の文芸座など、よく通ったものです。館内が古く、椅子も狭いといった難点がありましたが、貧乏学生にはもう十分。「屋根の上のヴァイオリン弾き」も、4、5回は観たと思います。ミュージカルもさることながら、映画の「屋根の上のヴァイオリン弾き」も、違った意味で素晴らしかったことを覚えています。

 
 18日の日曜日、高岡市にある「ミュゼふくおかカメラ館」に行って来ました。

 南砺市出身の写真家、安念余志子さんの写真展「光 のどけき」を見るためで、安念さんは富山県人として初めて、風景写真界の芥川賞ともいわれている、権威ある写真賞「前田真三賞」を受賞されたとのこと。
 写真展では、富山県内はじめ、青森、岐阜、長野、新潟、石川など、全国各地で撮影された風景写真が、数多く展示されていました。四季折々の美しい風景写真を、独自のタッチで撮影され、心洗われる思いで鑑賞させてもらいました。

  この頃、しみじみと思います。

 なるべく良いものを観よう。少しでも本物に触れようと。
 「屋根の上のヴァイオリン弾き」も、安念余志子さんの写真展も、私にとって少なからず心の琴線に触れるものがあり、今も心に響きわたっています。
 地上での生活が、後どれだけ残されているのか、知る由もありませんが、自然でもいい、音楽でもいい、美術でもいい、本でもいい、とにかく心に響く本物を大切にしたいと、日々思っています。(O)

「セイ!ヤング」から「ラジオ深夜便」へ

2015.01.13

(枝)啓翁桜、こでまり(花)スプレーバラ、スイートピー(葉物)レモンリーフ

(枝)啓翁桜、こでまり(花)スプレーバラ、スイートピー(葉物)レモンリーフ

 NHK「ラジオ深夜便」が、放送開始25周年を迎えます。
 放送開始前のテスト段階から、「ラジオ深夜便」を愛聴させてもらっている一人として、25年の時の流れに感慨深いものがあります。

 ラジオ好きは、今に始まったことではなく、中学生時代から。
 約45年前の中学・高校時代、ラジオから流れてくる深夜放送をよく聞いたものです。勉強しながら、ラジオから流れてくる深夜放送を聞く。俗にいう「ながら族」のハシリです。親は毎日、夜遅くまで熱心に勉強していると思っていたことと思います。しかしながら、実のところは、ただ深夜放送に夢中になっていただけ。さすがに毎日は聞けませんでしたが、深夜放送を聞いた日は学校で「オイ、聞いたか」と仲間たちと、大いに盛り上がったもの。
 ただ、ラジオの性能が良くない時代のこと。周波数をうまくキャッチ出来ず、苦労したものです。

 ニッポン放送「オールナイトニッポン」、TBS「パックインミュージック」、文化放送「セイ!ヤング」など、当時はまさに深夜放送の黎明期。
 どちらかというと、オールナイトニッポン派が多い中で、こちらはもっぱら「セイ!ヤング」中心。その頃のパーソナリティーは、レモンちゃんこと・落合恵子、土居まさる、みのもんた、谷村新司など。今から考えると、すごいメンバーです。ただ、ナッチャコ(野沢那智と白石冬美)の日だけは、パックインミュージックにダイヤルを合わせました。

 その頃よく聞いた曲は、「悲しき鉄道員」(ショッキング・ブルー)、「悲しき天使」(ダニエル・ビダル)、「あなたのとりこ」(シルヴィ・バルタン)、「雨」(ジリオラ・チンクエッティ)など。レコード盤など買う金が無く、ラジオから流れてくる曲をカセットテープで必死に録音したものでした。

 時は流れ、今は「ラジオ深夜便」のファン。

 「ラジオ深夜便」は毎晩、200万人もが聞いているという人気番組。放送は、午後11時20分から午前5時まで。もちろん、すべての時間帯を聞くことは不可能。寝入りばなか、せいぜい途中目覚めた時に、ダイヤルを合わせる程度。でも、あのアンカーのゆっくりとした口調、そして大河が流れるような静かなゆったりとした時間が、歳を重ねるとともに丁度良いようです。

 好きなアンカーは、森田美由紀アナと須磨佳津江アナ。以前は、柴田祐規子アナの柔らかな語り口が気に入っていましたが、残念ながら静岡放送局へ異動されました。

 若い時は、どれだけ寝ても寝不足気味でしたが、50歳の峠を越えた頃から、5時間も寝れば十分な体となりました。この頃では、なぜか夜中に目覚めることが多くなり、一度目が覚めるとなかなか寝付かれず、ついつい「ラジオ深夜便」へ。
 気持ちはいつも若いつもりですが、体は正直なもの。間違いなく老化が進んでいるようです。

 ラジオ深夜便は、時間帯別に様々な番組がありますが、どうしても3時台「にっぽんの歌こころの歌」、4時台「明日へのことば」を聞くことが多いようです。
 特に「明日へのことば」は、各界で活躍する著名人へのインタビューを通して、その人の人生観に触れるもので、「こころの時代」といわれた頃から愛聴しています。「明日へのことば」に、「森のイスキア」主宰・佐藤初女さん、ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さん、金城学院学院長・柏木哲夫さん、聖路加国際病院副院長・細谷亮太さん、国立がんセンター名誉総長・垣添忠生さんなど、好きな方が登場される時は、事前にチェックし、起きて聞くようにしています。
 著書とは異なり、肉声から伝わる独特の味わいがあるからです。

 30代前半に転勤で4年間、東京勤務したことがありました。
 あることから東京交響楽団の首席チェロリストのベアンテ・ボーマンさんと親しくなり、ご夫人のルリ子さん、子供さん達とともに、旅行に出掛けるなど、家族ぐるみのお付き合いをさせていただきました。
 ある時、何気なくラジオを付けると、ボーマンさんの懐かしい声が流れてきてビックリ。ラジオ深夜便の「明日へのことば」に登場されたもので、懐かしいやら、驚くやら。近況をお伺いすることが出来て、とても嬉しかったです。

 加齢とともに、どうやらラジオ依存度は高まる一方のようです。
 この調子では、「ラジオ深夜便」はさらに大切な「夜のお友達」になりそうです。(O)

新年あけまして、おめでとうございます。

2015.01.05

(花)胡蝶蘭、ゆり、ピンポン菊(実)千両(枝)大王松(葉物)レザーファン、銀柳

(花)胡蝶蘭、ゆり、ピンポン菊(実)千両(枝)大王松(葉物)レザーファン、銀柳

新年あけまして、おめでとうございます。

昨年は、9階をリニューアルし、新たに会議室を設けましたが、8階の貸ホール、貸会議室とともに、大変多くの方にご利用いただき、心から感謝しております。
新年を迎え、スタッフ一同、心新たに皆様に喜んでご利用いただけるよう一層努力していく所存ですので、貸ホール、貸会議室のご利用をよろしくお願い申し上げます。

 今年も、ありがたいことに多く方々から年賀状をいただきました。
自分もそうですが、版で押したように印刷されたものが多い中で、中には、干支にちなんだ木版画を30年以上送って下さる方、色鉛筆で素晴らしいイラストを描く方、見事な書道の腕前を見せてくださる方など、素敵な年賀状を送って下さる方もおられます。

 また、年賀状の隅に、ひと言近況を記して下さる人もおられます。
早期退職を迎えたこと、お孫さんの誕生や親の介護のこと、自らの健康上のことなど、内容は様々ですが、肉筆から滲み出てくるものがあります。私も、なるべく一筆書き添えるようにしています。

 中に1枚、気になる添え書きがありました。
「僕は、毎日が日曜日なので、年間百冊は超えます。まったくの乱読です。池波、吉村そして、向田邦子が多いかな」
この方は、確か70歳前後になられたはず。尊敬している方の一人です。

 実は私自身が、年間100冊の読破を目標としています。
昨年、その方への年賀状に、このことを記したのですが、見事に先を越されました。普段から、簡単な「読書ノート」なるものを付けていますが、改めて数え直してみると、昨年は67冊に終わりました。百冊は、週2冊ペースで十分達成できるのですが、遠く及びません。2月のように10冊読んだ月もあったのですが、不思議と波に乗れない月が出て来てしまいます。
決して、冊数にこだわるつもりはありません。冊数はあくまで終読した結果であり、目標ではないはず。しかしながら、怠慢な我が身には、目の前に少し数値目標があった方が良いようです。

 昨年、印象に残った本としては、細谷亮太著「いつもこどものかたわらに」(白水社)、神原一光著「辻井伸行 奇跡の音色」(文春文庫)、千住真理子著「歌って ヴァイオリンの詩2」(時事通信社)の3冊をあげたいと思います。

 ある本に、こんな言葉があります。

「もしひとが、自分は何かを知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」

 本を読んでいると、つくづくこの言葉が身に沁みます。
本の世界に入ると、いかに自分が何にも知らないか、知らなければならない基本的なことすらも知らないかを、改めて思い知らされています。

 時々、読書とは未知の世界を地図無しで旅行することではないかと思う時があります。
手元には、地図が無いけれど、本の中にある標識や案内図に身をゆだねることにより、今まで全く知らない新たな世界に足を踏み込む事が出来る。思い掛けない方との出会いを経験し、そこからさらに新たな輪が広がる。まるで、静かな湖面に石を投げ込むと、水の輪が出来ることに似ています。水紋は、どんなに石が小さくても、必ず出来ます。さらに、その波形は、いつの間にか湖全体にまで広がりを見せることもあります。
この心の中の広がり、これがたまらないのです。

 今年の読書は、三上延著「ゼブリア古書堂の事件手帖6 栞子さんと巡るさだめ」(メディアワークス文庫)からスタートしました。三上延さんのゼブリア古書堂シリーズが大好きで、いつも新刊の発売とともに読んでいます。期待にたがわず、面白かったです。

果たして来年の今頃は、皆さんに100冊達成の報告が出来るでしょうか。(O)

耐震改修工事の安全祈願祭が行われました。

2014.12.25

 

工事関係者ら約15名が出席して、耐震改修工事の安全祈願をしました。

工事関係者ら約15名が出席して、耐震改修工事の安全祈願をしました。

 富山県農協会館耐震改修工事の安全祈願祭が12月25日、農協会館8階803会議室で行われました。

  富山県農協会館は、昭和55年3月に竣工しましたが、建築基準法にもとづく耐震基準を一部満たしていないため、このほど耐震改修工事を実施することにしたものです。
 設計・監理は全農富山県本部建築設計事務所、施工は株式会社竹中工務店が担当し、平成28年12月の完成を目指します。

  安全祈願祭では、神官の祝詞奏上に続き、穴田甚朗農協会館理事長、須沼英俊県農林水産部長、三田村肇株式会社竹中工務店役員補佐らが、神殿に玉串をささげ、

工事の無事完成を祈る穴田農協会館理事長。

工事の無事完成を祈る穴田農協会館理事長。

工事の無事完成を祈りました。

  耐震改修工事は、建物の内側にブレースやフレームと呼ばれる鋼材を組み込んで補強し、アンカーを埋め込む方法や、壁の強度を高めるため、壁の間に鉄筋を新たに埋め込む「壁増し打ち」方法で行われます。

  会館の入居団体が通常業務を行う状態で、工事を行いますが、貸会議室や貸ホールについては、ご利用できない期間が一部発生しますので、ご了承ください。
 今後、色々とご迷惑をおかけしますが、詳細については決定次第、改めてご連絡させてもらいます。(O)

四畳半一間の木造アパート

2014.12.22

クリスマス本番です。(花)バラ、カーネーション、モカラ、かすみ草(枝)コットン(葉物)ゴールドクレスト、レモンリーフ

クリスマス本番です。(花)バラ、カーネーション、モカラ、かすみ草(枝)コットン(葉物)ゴールドクレスト、レモンリーフ

 FMラジオから、バンバンの「『いちご白書』をもう一度」が流れています。

  この曲を聴くと、いつも学生時代を思い出します。
 大学1年生のとき、大ヒットしたこの曲。フォークソング世代の1人として、「22才の別れ」「神田川」「なごり雪」などとともに、この曲を聴くたびに、大学時代の哀愁に満ちた切ないものを感じます。

  東武東上線・上板橋駅近くの、四畳半一間の木造アパート。
 1階の角部屋から、私の学生生活が始まりました。
 大学4年の姉が借りていたアパートで、たまたま空室が出たため、早速契約。共同トイレで、半畳の台所付き。もちろん風呂なしで、月額9,000円。2カ所ある窓のうち、片側の窓際に会社の家族寮があり、光が射すのは片方だけ。洗濯物が乾きにくく、困ったものでした。

  大家さんは、法務省勤務の奥さんで、社会人の娘さんと、2階で2人暮らし。
 携帯電話など無い時代。大家さんの固定電話が連絡先となり、電話が掛かるたびに、2階の大家さんから窓越しに呼び出しの声がして、お詫びしながら、2階の茶の間に駆け上がることに。大家さんには、なぜか大変可愛がっていただき、「余ったから」と、おいしいおかずをたびたび差し入れて頂きました。

  東京生活で、まず困ったことが風呂。徒歩2分に銭湯「第一亀の湯」があり、風呂好きな私にとっては有難たかったのですが、お湯の熱いこと。2つある風呂の、ぬるいはずの風呂でさえ、足を入れるのがやっと。横にある水道から水を差そうもなら、周りから冷たい視線が――。家庭風呂で育った我が身には、あの異常な熱さはかなり厳しいものがありました。平気な顔で入浴している「東京のみなさま」に、ただ、ただ尊敬の念。でも、不思議なことに、あれ程熱かったあの銭湯が、いつの間にか快適に――。慣れとは、恐ろしいものです。

  1年後、姉が大学卒業とともに、勤務先近くの世田谷区へ引っ越し。
 いよいよ私の自炊生活がスタート。3年間、朝食、夕食と、ほぼ欠かさず作りました。昼は、大学で学友達と学食を食べましたが、朝夕は料理好きなためか、裸電球一つの半畳の台所で、包丁を握り続けました。
 ただ、困ったのは、大好きな魚を焼く時。ガスコンロでゆっくり焼き上げる訳ですが、換気扇など付いているはずもなく、部屋中煙だらけに。サンマを焼こうもなら、匂いが部屋中にしみつき、困りました。
 大手スーパーがありましたが、姉にならって、近くの八百屋や魚屋、街角にあった豆腐屋さんなどを利用し、オヤジさん達とすっかり顔馴染みになり、よくまけてもらったものです。

  大学のクラスメイトは70名。北海道から鹿児島まで、文字どおり全国各地から集まってきた仲間たち。ドイツ語を第2外国語として専攻し、1年から4年までずっと同じクラス。といっても、クラス単位の講義は、1・2年は英語とドイツ語、体育など。3・4年は、経済原論の原書講読ぐらい。
 大学のクラスにしては、まとまりが良く。1年の時から年に3~4回コンパを続け、出席率も良く、卒業時も「お別れコンパ」を盛大に開催。なぜか幹事は、4年間通して私の役目。クラスの中で一番おとなしい私が、入学時に、どうして互いに名前も十分にわからない中で、幹事に選ばれたのか、いまだに謎です。
 卒業する際、クラスメイトにそれぞれの出身地の住所録が入った、「サヨナラ文集」を渡そうと、私が手作りで作成し、その時手伝ってくれたのが、今の家内です。

  クラスメイトに福岡県出身のⅠ君がいました。
 母子家庭の一人っ子で、4年になるまで朝日新聞の取次所に住込み、朝刊と夕刊を配達し、仕送りなしで頑張っていました。疲れのためか、最低限の授業にしか出ず、ひたすら読書の世界に埋没し、クラッシック音楽鑑賞の日々。登校しても、学生服に破帽、下駄履き姿の独特の出で立ち。一般教養の時は、授業がつまらなかったせいか、成績は今一つだった様子。でも、英語に関しては、クラスでは群を抜いていました。
 夏は蒸し風呂、冬は寒冷地の、彼の狭い下宿によく出掛け、語り合ったものでした。

  3年から共にN教授のゼミ生となり、日本経済論を学び、彼は4年時にゼミ長に。専門課程に入ると、猛烈に幅広く学び、抜群の成績に。卒業時には日本銀行の最終面接に残ったほど。結局、大学院に進み、卒業後、私学からは難関の東京大学社会科学研究所の助手に採用されます。国費で英国の大学に2回留学。帰国後は、国立大学の講師から助教授に。40代半ばで母校に戻り、経済学部の教授に。
 教授になってからも、決して偉ぶる素振りもなく、ゼミのOB総会で再会し、年賀状のやり取りが何十年も続いていました。

 50代過ぎから、急に彼から年賀状が届かなくなり、どうしたのかと思っている内に、55歳の時、突然、彼の訃報を知り、本当に驚きました。肝硬変だったとのこと。
 どうして連絡してくれなかったのかと残念であり、何よりも将来を大いに嘱望されていた彼だけに、本人が一番つらかったことと思います。

  3年前上京した際、たまたま時間が空き、あのアパートを訪ねてみたくなりました。
 当然、都市開発で跡形もなく、取り壊されていると思ったのですが、昔の姿のまま残っていました。
 35年近くも経過しているにもかかわらず――。
 正直、とても懐かしかったです。でも不思議と、侘しい思いが込み上げてきました。

 結局、4年間生活した古びたアパート。引越し代金もなく、そのまま同じ部屋に居座った訳ですが、住み心地が良く、人々にも恵まれ、良い思い出があの部屋に凝縮されています。
 老朽化したアパートには、今は誰ひとり住む人もなく、近くで洋服店を営む大家さんの妹さんによると、大家さんは7~8年前に他界されたとのこと。

  バンバンの「『いちご白書』をもう一度」に

    雨に破れかけた街角のポスターのように
   過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる

  とのフレーズがあります。

  この歌を聴くたびに、もうセピア色になりつつあるあの学生時代が、哀愁を帯びて、鮮やかに心に蘇るのです。(O)

PS.
いつも拙文をお読みいただき、ありがとうございます。
もし許されるなら、もうしばらくこのブログを続けさせてもらいたいと考えています。
少し早いですが、良いお年をお迎えください。

高峰秀子流 暮らしの流儀

2014.12.15

(花)デンファレ、ホワイトレースフラワー(実)サンキライ(葉物)ゴールドクレスト、丸葉ルスカス

(花)デンファレ、ホワイトレースフラワー(実)サンキライ(葉物)ゴールドクレスト、丸葉ルスカス

 女優・高峰秀子さんが旅立たれて、もうじき4年目を迎えます。

 先日、北日本新聞に「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」が発表され、1位は男優が三船敏郎さん、女優が高峰秀子さんだった、との記事が載っていました。これは、映画雑誌「キネマ旬報」を発行するキネマ旬報社が、同誌創刊95周年を記念して、評論家や文化人ら映画に造詣の深い181人に、アンケートを実施したものです。ちなみに、11月に亡くなった高倉健さんは男優で4位、男優の現役俳優では、ただ一人役所広司さんが8位にランクインしていました。

  高峰秀子さんが1位とあり、内心嬉しく思いました。
 というのは、実は高峰秀子さんのファンだからです。
 といっても、高峰さんの主演映画で観たものは「二十四の瞳」ぐらいで、女優・高峰秀子というより、エッセイストとしての高峰秀子さん、゛にんげん・高峰秀子さん゛のファンといった方が正しいかもしれません。

  「わたしの渡世日記」(文春文庫、上下)で、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した高峰秀子さん。
 文章が秀逸で、独特のユーモアとリズム感があり、とにかくうまい。5歳から子役として活躍し、仕事が忙しかったため、学校へ行きたくとも行けず、小学校から学校と名の付くものとは、全くと言っていいほど無縁だったという高峰さん。にもかかわらず、あれだけの語彙力と博識は、読書などによる独学と聞き、本当に驚かせられます。

 高峰秀子さんは生前、知っている範囲では約25冊の本を執筆しておられます。
 最近、復刻版が出版されていますが、それでも入手困難なものもあり、私が読み終えた本は残念ながら10数冊にすぎません。その中で好きな1冊をと言われれば、迷わず「わたしの渡世日記」を選びます。

  高峰さんは、2010年12月28日に86歳で亡くなられました。
 遺作となった本は、「高峰秀子 暮らしの流儀」(新潮社、とんぼの本)です。
 この本は、脚本家であり、映画監督でもある夫・松山善三さんと晩年に養女となる作家・斎藤明美さんと、ご本人の家族3人による共著です。この本の中に、高峰さんの考え方や生き方などがエキスとして凝縮されており、生(なま)の高峰さんを知るうえで大変興味深い本といえます。

  本の中で、斎藤明美さんは養母・高峰秀子さんのことを
 「どんな名作のスクリーン上よりも、家の中で生きることを選んだひと。信条は、清潔整頓。身の丈に合った生活。台所仕事に精を出し、おいしいごはんをつくること。゛にんげん高峰秀子゛のその潔い暮らし方、静かな日々の営みに、本当の幸せ、人間の喜びがある。」(6P)と記しています。
 この短い文章に、高峰秀子さんの50代半ばでの引退後の生き方が、すべて凝縮され、言い尽くされている気がします。

  300本以上もの映画に出演した大女優・高峰秀子さん。
 引退後は、世間から極端なまでに意図的に乖離(かいり)し、愛する松山善三さんとの日々を大切にし、自分らしく生きることに徹底しています。立派な豪邸を壊して、敢えて小さな家に建て替え、家政婦さんを置くこともなく、自らの手で、日々、潔癖なまでに整理整頓し、食材を活かした料理にこだわり、料理本まで残されています。
 そして、何よりも大好きな読書三昧の静寂で、充実した時間を過ごされました。

 著書「高峰秀子 暮らしの流儀」にあるような、時代が移り変わろうとも輝きを失わない、「本物」の営み、凛とした生活を少しでも積み重ねられたらなーと思っています。(O)

PS.ブログには、花の写真を掲載しています。
   以前にもご案内したとおり、この花は農協会館1階のエントランスに飾られているもので、近くのお花
  屋さん「立山農園」さんが、毎週、創意工夫しながら活けてくださっています。
   写真をクリックするとさらに拡大して、全体がご覧になっていただけます。ぜひ、お試しください。

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